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piano

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私にとってピアノを弾くという行為は、少なくともゲームをするときのようなな感覚ではない。いつも何かに逡巡しながら弾いていることが多いのである。弾くことに集中してはいるのだけど、思考はいつも他のところにあるような気がする。そうして無意識に、頭の中を整理したり、物事の区切りをつけたりしているような気がしている。

それは何となく言葉にはしにくい漠然とした思いだったり、寂しさだったりを指先から鍵盤へと放出するようなイメージだ。上手く演奏することにだけ、集中できる人もいるかもしれないし、もしかしたらどんな楽器の奏者もそうしたことをしているものなのかもしれない。本当のところはどうなのか、だれかに聞いてみたことがないから私にはよく分からない。

ただクラシックの名曲を弾いていると、悲しいことがあった訳でもないのいふっと自然と涙が出てくる一節がある。毎回、同じ1小節だけでである。
作曲者はきっとこの曲を作ったときにこの箇所で涙が頬を伝っていたのではないだろうか。文章もまたそうであるように、文学も音楽もその作者の心情が、それに触れた人間に確実に伝わるものだと思っている。

鍵盤は弾く人間の気持ちや心の振動みたいなものをやさしく受け止めながら、音をやさしく鳴らしてくれる。そういえば幼い頃から、やり場のない思いをピアノにすべて受け止めてもらってきた

両親が喧嘩をしていたとき
寂しいとき
失恋をしたとき
受験に失敗したとき
大切な何かを失ったとき
どうすればいいのか迷ったとき
何かを諦めなくてはいけなかったとき
どこかへ消えてしまいたいと思ったとき…

生きていれば楽しいことばかりではなくて
どちらかといえば辛いことのほうが多いのかもしれない

そんなとにピアノは何も言わずに、黙って心の響きに呼応してくれる。でも弾き終えると、すぐにまた静寂だけが訪れる。呼応はしても、そのあとは何もないのである。それでいい。だって別に慰めや励ましの言葉が欲しいわけではないのだからー。

「またいつでも弾きたくなったらどうぞ」とでも言っているかのように、ピアノはただ、そこに静かに佇んでいる。人が誰かに求めているものも、本来はそういう存在なのかもしれなかった。

とくに辛いことがあったわけではないのだけれど、
今日は、もう少しだけピアノを弾いていたいと思った。
私の中の”逡巡”について、ある一定の区切りをつけたいという欲求があるせいなのかもしれない。

でも、またあとでね。


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