ふろふきアンチョビ髭のチャップリンと日本
我ながら何たる下らぬタイトルかと呆れる。それでも喜劇王と日本の關わりを妄想しつつふろふき大根の新たな地平を目指した記録。
大根 15センチ位
昆布 5センチ位
アンチョビ 1缶
味噌 大匙2
醤油 大匙1
葱 青い所を5センチ位
水 適量
今回の料理は交流させて頂いている藤野 知枝さんの料理から発想。というかパクリ?↓
まずはチャップリンについて基本事項。
1889年、ロンドンにて貧しい芸人夫婦の子として誕生したチャールズ・スペンサー・チャップリン。
五歳の頃から舞台へ。
アメリカ巡業中、黎明期にあった映画業界に見出される。
山高帽にダボダボズボン、ちょび髭にステッキという放浪紳士スタイルで多くのサイレント映画に出演。人気コメディアンとなる。『街の灯』『黄金狂時代』『キッド』等々、多くの代表作。
明治十八年(1885)広島県の裕福な家に生まれた高野虎市(こうのとらいち)
因習に縛られた田舎を嫌い、明治三十三年(1900)に単身でアメリカ移民。
商店で働いたり、パイロットを目指したりしながらアメリカで生きていたが、知り合いからイギリス人俳優の運転手をやらないかと誘われたことが彼の運命を変えた。
当時、既にスターとなっていたチャップリンの運転手として雇われたのが大正五年(1916)三十一歳。
人種差別が色濃く存在した時代ですが、チャップリンには偏見はなく、運転が出來るので高野を雇った。
高野も別にチャップリンのファンでもなかった。
高野の誠実で真面目な仕事ぶりはチャップリンに氣に入られ、運転手以外の仕事も任されるようになる。代役として映画出演、経理や財産の管理、ついには秘書に。
「コーノは私のすべてだ」とまでチャップリンは語った。
余程、高野そして日本人が氣に入ったようで一時期、チャップリンは自身の屋敷で雇っていた十七人の使用人をすべて日本人にした。
日本への興味が昂じて、ついに来日希望。
高野は日本に先乗りして、地均し。
時代は軍靴の響き高まる昭和初期。
知り合いに海軍関係者がいたようで、高野は不穏な動きをキャッチ。
昭和七年(1932)五月十四日にチャップリン来日。
高野が真っ先にチャップリンを案内した先は皇居。
「お辞儀まではしなくていいから、一礼して下さい」
「それが日本の仕來りなら」
と車を降りた。
チャップリンが日本の元首である天皇に敬意を示した。このことは翌日の新聞にも大きく報道。
翌十五日は犬養毅首相と會食の予定だったが、チャップリンが相撲を観たいと言い出したためにキャンセル。
その日に起こったのが海軍将校による犬養首相襲撃、つまり5・15事件。
この時、将校達はチャップリン暗殺も企てていた。
国際的な有名人を暗殺して、英米との関係を悪化させて戰時ムードを高める計画。
これを予期していた高野はチャップリンに皇居礼拝。更に犬養首相との面會を回避させたのではないか。
高野はこうした事態をすべてチャップリンの耳には入れないように配慮。
チャップリンは相撲や歌舞伎、剣劇、天ぷらと日本を十分に堪能。
チャップリンと河野の蜜月は思わぬ所から破綻。
チャップリンの内縁の妻は浪費家。高級車を買って貰ったのに文句。高野はそれを窘めた。妻はそのことをチャップリンに告げ口。
「おまえはクビだ」
「わかりました」
実は「クビ」というのはチャップリンの口癖。いつもの冗談のつもり。慌てて慰留するも高野の決心は揺らがず。
「綸言汗の如し」とは日本のことわざ。
一旦、口に出した言葉は取り消しが利かない。特に立場が上の人ならば猶更。それを高野はチャップリンに示した。
チャップリンは止む無く莫大な退職金と映画配給会社の日本支社長のポストを高野に与えた。
高野は事業には馴染まなかったようで失敗。
日米開戰後、スパイ容疑で逮捕され、強制収容所へ。
解放されたのは戦後三年も経った1948年。
5・15事件を察知していたことから察するに、もしかしたら高野は本当に海軍と繋がっていた?
昭和三十一年(1956)に帰国。
昭和四十六年(1971)死去。
高野と別れた後のチャップリンですが共産主義者の疑いを掛けられて、アメリカから追放され、スイスに移住。
ヨーロッパを拠点に映画製作。
チャップリンを追放したアメリカは1972年にアカデミー名誉賞を贈った。償いというべきか。これを受けてチャップリンは二十年振りに米国へ。
高野がこの前年に亡くなっているのは残念。
この時、黒柳徹子がチャップリンにインタビュー。日本人の姿に感極まったチャップリンは
「ジャパン!」と叫んだ。
薄い昆布出汁醤油が染みた大根にアンチョビ葱味噌。
アンチョビはかなり塩気が濃いので、甘い九州味噌と混ぜると程よい塩梅。
葱がさっぱり感を出して、食欲も増し増し。
アンチョビは鰯つまり青魚のDHAやEPAが豊富。ビタミンB12も豊富。
大根で食物繊維補給。
もう一人、チャップリンと關わった日本人。
日本の喜劇王、萩本欽一。
どうしてもチャップリンに會いたい一心でレマン湖畔のチャップリン邸へ。
しかし晩年のチャップリンは一切の面會を断っていた。
それでも四日間、日参。
いよいよ歸国しなければならないギリギリの時、
「あの映画はインチキだ、チャップリンは嘘つきだ」と怒鳴った。
その聲が届いた。日本語は理解出来なくてもその響きはわかったのか。
屋敷から出て来たチャップリンは欽ちゃんを迎えて写真撮影、歓談。
チャップリンが日本贔屓になったのは、真面目で誠実という絶滅危惧種になっている本物の日本人の典型だった高野虎一がいたから。
令和の現代を生きる日本人のどれだけが、高野のような生き方が出來ているだろうか。そんなことを妄想しながら、ふろふきアンチョビ髭のチャップリンと日本をご馳走様でした。