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蓮根赤軍
秋は誠に実りの季節。その代表格である薩摩芋と蓮根を赤い色に料理しながら、日本を震撼させた事件を起こした青年達を妄想した記録。
今回の料理は、青柳ゆきさんの記事からヒントを頂き、自分なりにアレンジしました。
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蓮根 1節
薩摩芋 半分
醤油 大匙1
味醂 大匙1
ケチャップ 大匙1
酢 小匙1プラス適量(蓮根晒し用)
片栗粉 適量
黒摺り胡麻 好きなだけ
選挙の投票率が30%を切るような現在とは異なり、1970年代頃までは政治に関心がある日本人、特に若者は多かった。
特に高学歴な人程、左翼思想に傾倒していく。
そうした中から暴力革命によって日本を共産化しようと考える人達。彼等は新左翼と呼ばれた。
大きな二つの勢力、革命左派と赤軍派が統合して誕生したのが連合赤軍。
赤軍派は銀行強盗により資金力を持ち、革命左派は銃砲店襲撃により猟銃等の武器を所持。金と武器を兼ね備えた集団になる。
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連合赤軍に加わっていたのは大学生達。
それも東大、京大、慶應等々、一流大学の名前がずらり。当時の大学進学率が20%程度だったことを考えると、個人のことだけ考えれば、そのまま大学で勉強を続けていれば、エリートコースに乗って人生の勝ち組間違いなしだったのが理想を求めてドロップアウト。
私は決して彼等を肯定はしません。行ったことは犯罪であり、多くの人が傷ついたのは間違いない。
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明らかに間違った理想に向かって突き進み、やがて暴力の牙は仲間内に向けられていく。
山梨や群馬の山中にアジトを設けて、射撃訓練や議論に明け暮れていたのですが、過酷な山の生活や息苦しさに耐えかねた脱走者。
それを町中へ追っていき、暴行の末に殺害。証拠隠滅や身元を隠すために死体は全裸にして埋める。遺棄された場所から印旛沼事件と呼ばれます。
群馬県の榛名山や迦葉山の山中で更なる凄惨な事件。
思想のブレとかちょっとした言動を捕らえて、仲間内で総括ということを開始。
「総括しろ」というのは、言わば反省しろという意味に近いようでしたが、総括を助けるという名目で、対象者を殴るようになっていく。
長時間、正座させたり柱に縛り付けての暴行。冬の山中に放り出したりと無茶を重ね、死亡者が出てくる。こうしたリンチ殺人は山岳ベース事件と呼ばれる。
恐ろしいのは、印旛沼事件も山岳ベース事件も後に逮捕されたメンバーの供述によって判明。つまり捕まらなかったら、闇に葬られていた。
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警察も放置していた訳ではなく、山岳ベースは次々と摘発。主だったメンバーは逃げる。
坂東國男、坂口弘、吉野雅邦、加藤兄弟二人の五人は逃亡の末、軽井沢へ逃れる。季節は真冬。避暑地である軽井沢は静まり返り、雪に閉ざされた地で五人は無人の別荘、さつき荘に侵入。備蓄の食料を食べて凌いでいましたが、雨戸を閉めたさつき荘から聞こえる話し声に巡回中の警察官が気付く。逃走した彼等は河合楽器の保養所に逃げ込む。これが世間を震撼させた事件の始まり。
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保養所の名前があさま山荘。当時、管理人は買い物に出掛けて不在。妻が留守番。そこに押し入った坂口達は妻を縛り上げて人質に取り、籠城を開始。
これが219時間、9日間に渡った「あさま山荘事件」
犯人達が銃と弾丸を持っていることがわかっているので、地元の長野県警のみならず、群馬県警や警視庁からも応援の機動隊が駆け付ける。
この事件の異様なことは、山荘に立て籠った犯人達は何も要求せず。
普通ならば、脱走用のヘリを用意しろとか逮捕された仲間の釈放とかを求めそうなものですが、何も言ってこない。警察が投降を促しても犯人達の返答は銃声のみ。
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警察は坂東と吉野の母を現場に呼んで、説得してもらう。驚くことに母親が乗る装甲車にまで発砲。
もはや誰の言葉にも耳を貸さない。
それなのに、彼らを説得しようと試みた民間人。警察の包囲の隙をついて山荘裏の崖を登り、玄関へ。
母親の説得すら聞かないのですから、言うまでもなく殺されました。
他にも警察官が二名、殉職。
皆、頭を撃たれました。最初から殺すつもりで撃っていたということ。
都合三名がこの事件の犠牲者。
こうした攻防戦はテレビ中継され、最高視聴率は89%。
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昭和四十七年(1972)二月二十八日。事件発生から9日後、この事件を象徴する物が登場。重さ1・5tの鉄球。民間の土木会社のクレーン車に装甲を施し、吊り下げた鉄球をぶつけて壁に穴を開け、放水や催涙弾。
決死隊が突入。ついに立て籠もり犯五人を逮捕。人質も無事に救出。
長い戦いが終わりました。
あさま山荘事件は警察、特に現場の指揮を取った佐々淳行の視点から見た「突入せよ!あさま山荘事件」。
又、連合赤軍側から見た「実録連合赤軍、あさま山荘への道程」という二本の映画になっています。
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黒摺り胡麻をかけて完成。ケチャップで仄かに赤い。薩摩芋の皮も赤い。
蓮根も薩摩芋も食物繊維やビタミンCたっぷり。
蓮根には抗酸化作用があるタンニン、胡麻からはゴマグリナンと正にアンチエイジング食。
蓮根のシャキシャキ感と薩摩芋のほっくり感を同時に楽しめる贅沢な逸品。
ケチャップを混ぜた甘酢味もよく合う。
人質になった管理人の妻ですが、好奇の目に晒されることに。
つまり、荒くれた五人の男に人質として捕らわれていたのだから、世間は性的暴行を受けたのかを気にしたのでしょう。
「大事にされていました」と人質女性は発言。すると
「三人も殺されているのに不謹慎だ」と批判される。
弱い立場の人を叩くというのは昔からよくあること。
こうした扱われ方に懲りたのか、以後は人前に出ることを避けて、取材等にも応じない。
真偽不明ですが、この管理人夫婦、九州から駆け落ちしてきたという話があります。ただ、これも好奇の目から生まれた浮説かもしれません。
あさま山荘に籠った五人の内、坂東國男は昭和五十年(1975)日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件で釈放要求を受けて出獄、国際指名手配されていますが、現在も行方不明。
他の四人、坂口は死刑判決、吉野は無期、加藤兄は懲役13年、弟は中等少年院送致。
昭和の日本を震撼させた事件の一つを妄想しながら、蓮根赤軍をご馳走様でした。