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菜の花で偲ぶ司馬遼太郎

二月十二日は司馬遼太郎の命日。
司馬遼太郎が菜の花を好んだから「菜の花忌」と呼ばれる。
そろそろ市場に出回り始めた菜の花を料理しながら、國民的作家を妄想した記録。


材料

白米  2合
菜の花 半把
油揚げ 半分
昆布  5センチ
酒   大匙1
醤油  大匙1
味醂  大匙1

大正十二年(1923)大阪に誕生した福田定一が後の司馬遼太郎。
薬局の次男でしたが兄は早世。
病氣のため、母の実家に預けられた。そこは奈良であり周囲には古墳が多く、土器や石器を集めていた。
歴史への關心はこの頃からか。
大阪の小学校、中学校へ。勉強はあまり好きではなかったがかなりの読書好き。
乱読というべきで読む本がなくなると百科事典を読んだとか、書店に通い詰めて吉川英治の『宮本武蔵』を立ち読み。
「うちは図書館ちゃう」と店員に嫌味を言われた等の逸話。


菜の花を茹でる。

昭和十五年(1940)大阪外国語学校蒙古語部(現在の大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)に入学。
昭和十八年(1943)学徒動員のために仮卒業。
陸軍の戰車部隊に入隊。
満州へ。昭和二十年(1945)本土決戦に備えて栃木県佐野へ。
「東京方面に戰車で向かう時、東京から逃げて來る者と出くわしたらどうすべきか」
そんな質問があった時、上官は
「轢き殺して進むべし」と返答。
國民を守るべき軍隊が國民を犠牲にしろと言っている。こんな事例は他にもあったようで終戦後、何と馬鹿な戰争をしてきたのか。昔の日本人はもう少しまともだったのではないかと思うようになった。
そのことが本格的に史料を調べて小説を執筆する原動力になった。


米を研いで、短冊に切った油揚げ、調味料、昆布と水を注いで炊飯。

復員後、幾つかの新聞社を経て産経新聞の記者に。
昭和三十一年(1956)司馬遼太郎の筆名で応募した『ペルシャの幻術師』が講談倶楽部賞受賞。海音寺潮五郎に絶賛される。
『史記』を書いた司馬遷に遼か(はるか)に及ばずという自嘲氣味なペンネームが司馬遼太郎。
この名前になってから快進撃。
昭和三十五年(1960)に『梟の城』で直木賞受賞。産経新聞を退社して専業作家に転身。
初期は忍者の小説が多かったことから『忍豪作家』などと呼ばれたが、昭和三十七年(1962)司馬と言えば誰もが思い浮かべる代表作の連載が始まった。『竜馬がゆく』と『燃えよ剣』
歴史を俯瞰する『司馬史観』と呼ばれる手法で次々に歴史小説を発表。國民的作家へ。


炊き上がった。

その後も『坂の上の雲』や『関ヶ原』『空海の風景』等々を世に送り出して押しも押されぬ不動の地位。
『韃靼疾風録』以降は小説執筆よりも『この国のかたち』や『街道をゆく』等の随筆や批評等に力を入れた。
平成八年(1996)逝去。享年七十二歳。
以上が司馬遼太郎の大まかな経歴。

座談の名手と言われ、聞き上手、話し上手だったという。
小説を書くに当たっては物凄い量の本を読み込むと言われ、軽トラの荷台一杯に古本を買い込んだとか、司馬遼太郎が小説を書いていると市場から古文書が消えるとかいう傳説。
歴史の場面を書くに当たって、その日の天候がどうだったか等、細部が非常に氣になり徹底的に調べると、武田鉄也と対談した時に司馬は語った。


昆布を取り、刻んだ菜の花を混ぜ込む。

司馬遼太郎以前と以後で世間のイメージが一変した歴史上の人物は少なくない。
例を挙げると織田信長といえば、朝廷とか幕府という中世的権威を破壊した革命児と多くの人がイメージするが、これは『国盗り物語』で司馬がそう描写したから。終戦までは織田信長とは勤王武将。勿論、皇国史観があったからでしょうけれど、随分違う。
坂本龍馬も海軍の父みたいな扱いで、今程メジャーではなかったが『竜馬がゆく』で徒手空拳で世の中を変えた快男児と司馬は描いた。
もっとも評価が変わってしまったのは乃木希典。
終戦までは歌や詩吟まで作られて、軍神として乃木神社等に祀られた存在。それが『坂の上の雲』で二百三高地攻略に過大な犠牲者を出したと司馬が描写したために、すっかり愚将扱い。
乃木大将については思う所もありますが、本稿は司馬遼太郎を書いているので乃木については機會を改めて。



菜の花で偲ぶ司馬遼太郎

甘味と苦みが同時に味わえる菜の花。薄い醤油味のご飯によく合う。油揚げにも味が染みていい味わい。
菜の花にはビタミンCやB群、EやKが含まれる。マグネシウムやカリウム等のミネラルに食物繊維。
油揚げで良質なタンパク質も頂ける。

あれだけしっかりと史料を調べる司馬遼太郎が書いているのだから、間違っている筈がない。だから信長は革命児で竜馬は快男児で乃木は愚将だ。
無批判にそう思い込んだ人があまりにも多かったのではないか。
佐高信という評論家が司馬遼太郎批判の原稿を書いたが、何処の出版社も引き受けてくれなかった。司馬のご機嫌を損ねる可能性があるので困るということか。
光文社のみが佐高の原稿を出版してくれた。
この出版社はまだ駆け出しだった司馬を門前払いにしたことがあったから。逃した魚は大きいが、もはや忖度する必要もなしということ。
多くの出版社のこうした姿勢も司馬作品をすべて史実と思い込む風潮に一役買ったのだろう。

例えがよくないが、詐欺師は話の細部に本当のことを紛れ込ませるが核心部分は嘘。小説とかフィクションも同じ。
司馬遼太郎の作品はよく出來ているし、私も楽しんで読んだ。
すべて架空の話ならいいのだが、実在した人物を書いているので虚構と事実が混ざっているということを理解しておかねばならない。
司馬遼太郎に限らず、誰かの言っていることを鵜呑みにするのではなく、自分で調べるとか考えることをすべき。日本人は特に権威や肩書がある人が言うことを疑わない傾向。
少しは自分の頭で考えた方がいい。

日本人の歴史観を一変させる、或いは誰かにとって都合のいい歴史観を日本人に植え付ける。それが司馬遼太郎に与えられていた任務だった?
司馬史観ではなく司馬主観じゃないか?
そんなことを妄想しながら、菜の花で偲ぶ司馬遼太郎をご馳走様でした。

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