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「AI無断学習を批判する絵描きでも"背景ならOK"」を価値視点で考える
タイトルの件について疑問視しているコメントを定期的に見かける。
自分が最初に「(絵の無断学習は問題視してるが)背景では使いたい」と言ってる人を見かけたのは2023年頭のある動画。
最近も同様の意見を見かけたので、ここでは
「なぜAI無断学習を批判する絵描きでも"背景ならOK"」とするのか?そう思うのか?
という点を取り上げたい。
結論としては前記事と同じく、「価値視点」で考えると説明できるし理解しやすい、ということ。
問題はやはり「価値の違い」
前記事では、AI無断学習の批判と問題の根本は「価値の違い」にあると書いた。
AI学習され、ダイレクトかつ多分に移転し得る学習元データの価値がそのジャンル/人にとって「目的/1次価値」か?「手段/2次価値」か?
それによって、無断学習が「許容できるジャンル/人」と「許容できないジャンル/人」の傾向が分かれる。
一つだけ例を挙げると、漫画。漫画の価値は「ストーリーの面白さ」で、絵はその目的達成のための「手段」。AI絵では漫画の1次的価値は全く移転しないので許容しやすい。
対して、イラスト/芸術の価値は「絵に含まれるあらゆる要素」であり、絵自体が「目的」。AI絵でイラスト/芸術の1次価値が移転されうるので許容しがたい。
これが前記事と自身の意見の要点。
今回のテーマに話を戻すと、件の「AI無断学習を批判する絵描きでも"背景ならOK"」問題も同様の考えで理解できる。
上記の意見を言う人の前提にあるのは「人物・キャラ絵のAIイラストの使用/無断学習はNG」。
それは、その絵描き/絵にとっての「目的(1次価値)」は「人物・キャラ」だから。対して、「背景」はそのキャラを引き立てるための「手段(2次価値)」に過ぎない。
つまり、同じ一枚絵の要素の中で、(AI絵の無断学習を許容しやすい)漫画等のジャンルと同じ構造が見られる、ということ。
そして、「手段に過ぎないんだから、AI絵でもいいし、無断学習してもされても大した問題ではない」となる。
それが、「AI無断学習を批判する絵描きでも"背景ならOK"」問題の内実だと考えられる。
最後に
前記事の「AI問題を価値視点で考える」の延長で考察してみた。更新が空いてるので更新目的も兼ねて。
ちなみに自分の立場は漫画描きとしては「AI絵の無断学習は気にならない」、イラストレーターとしては「明確に許容できない」(両者は絵も活動も全く異なる)。
当事者の感覚としても今回の問題にしても、やはり自分自身にとって手段/2次価値に過ぎないものは「無断学習してもされても別にいい」という意識になりやすい、と言えるんじゃないかと思う。
普遍的に言えることだが、大事なのは目的であって、手段はあくまで目的達成のための道具。目的が叶うなら手段はいくらでも代替可能だし、言ってしまえば何でも良い。AIで無断学習しても無断学習されても。
ただ、ある領域において「手段/2次価値」に過ぎないものも、別の領域においては「目的/1次価値」。
にも関わらず、一義的に一方的に「AIは手段・道具に過ぎない」とし、全てを一緒くたに扱ってる点がAI絵・AI学習の問題の根本であり、世界中を紛糾させている諸悪の根源となっている。