BUCK-TICKが音楽以外の何かになった日②

前半↑と前置き
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バクチク現象というライブを経て、BUCK-TICKに音楽以外のものを映すようになった心境の変化を記録しておきたかっただけの主観的な書き物。
なので、ところどころ失礼な表現や誤認があるかもしれませんがご容赦ください。
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"大切なお知らせ"から武道館までの心境や行動をつらつら書き連ねると、
わからない
意外と日常
思ったより悲しい
でもこんなに悲しむ資格はないのでは?
意外と日常
聴けないや
観られないや
などだったかと思う。

なかでも、長いファンでも家族でもない、まして櫻井さんファンですらない自分がなぜこんなに涙を流すのか、流す資格があるのかという想いが強かった。
喪失感を感じていることに後ろめたさがあった。

あとは、悔しいという感情。

こんなにも完成されたかっこよくて美しくて完璧な作品からなんで肝要なピースが奪われるの?聴けなくしてくれてどうしてくれるの?ライブで聴いたことない曲聴きたい曲まだまだたくさんあるのに?
(追記:もちろん、この悔しさは櫻井さんに対するものではなく、いるんだかいないんだかわからない神様的なものやぶつけどころのない何かに対する悔しさです)

献花式の帰り道は特にその感情が強かった。

このままおじいちゃん(になったメンバー)たちのなかよしこよしを見たかったというより、音楽に対する欲求が強かった。

今日ここでかっこいいライブを観る予定だったのに!
悔しいよ、ほんと。
とSNSにも綴った。

そのような想いの中迎えたバクチク現象。

怖いような、それでいて、今井さんがどんな解を出してくるのだろうかとある種の興味深さがあり、不謹慎極まりない表現ではあるが、「怖いもの見たさ」という語が、チケットを取ったときから当日を迎えるまでの感情を表するのに言い得て妙であることを否定できない。

しかしながら、会場に足を踏み入れると同時に目に飛び込んできた光景に、思わずぐっと拳を握った瞬間を今も鮮明に思い出す。

仮面、燭台、ステッキ……櫻井さん愛用の品々が並ぶ中、そこにマイクスタンドは無い。
これがBUCK-TICKの出した答えなのだと私は思った。

無論、これから始まるライブが櫻井さんの過去の音源を用いるのか、今井さんや星野さんが歌うのか、はたまたインストゥルメンタルなのか、ライブの形式的なことがわかったわけではない。

ただ、櫻井さんとの別離、決別、それが解なのだとこの時点では誤解してしまっていた。

今井さんのぎこちない「さあ始めよう、BUCK-TICKだ!」の一声(やはりこの人はゼンマイで動いている?)に驚きすぎて始まった1曲目の疾風のブレードランナー、驚きのあまりか自分の知っているその曲よりもイントロがやけに長いような気がして、まさかの全編インストゥルメンタル!?と誤解に誤解を重ねて聴こえてきたのは、
櫻井さんの歌声だった。

不幸中の幸いか、斜め前の背の高い男性のおかげでステージドセンは視界が遮られ(ただこれまでも習性として見えなくても今井さんを見てしまうので関係ないといえば関係ない)、かつ、音が決して良くはない武道館という会場でも比較的バランスよく聴こえる座席であったこともあり、最初に抱いた感情は、
今井さんがやけによく喋る以外、何も変わってないんじゃないか?
という驚きで。

まるで櫻井さんがスクリーンの裏で歌っているかのような。

しかしながら感情はずっとそのままではいられなくて、4人の"今"が映るビジョンに、真ん中が不自然に黒く塗られ。
全身、指の先まで繊細に用いて唄の世界を表現する櫻井さんの姿はそこになくて。
そしてやや違和感のあるMCや、明らかに昔の音源とわかる歌声。

ああ。やはり、ここにはいないんだな、って。

ずっとずっと涙も止まらなかった。
ただそれは、櫻井さんがいないことを目の当たりにし、痛感したがゆえの涙とは少し異なっていた。

4人から感じられる、これまでとは明らかに異なる気迫、覚悟のパフォーマンスに心打たれたからだった。

ご本人たちにしてみたら、何にもわかってない小娘にこのようなことを言われたくはないと思うのだが、
テスト勉強?全然してないよ?
にも似た涼しい顔を水面に出しながら、明らかに全員が全員、水中で必死にバタ足をしながらなんとか泳いでいた。

それはおそらく、ステージ上だけではない。
袖やPA卓、高いところ見えないところにもいらっしゃる多くのスタッフさん、そしてもちろん、私含む客席も。

そうでありながらも、音と映像と生の演奏、メンバーをはじめこのコンサートを作り上げている全ての方々の技術と鍛錬による奇跡的な歯車の噛み合わせで成立しているライブは滞りなく進行した。

そして、プロンプターに歌詞がいつも通り映っていたり、櫻井さんが普段客席を照らすようにムービングライトを動かしたり、ちょっと笑ってしまった燭台の演出(感動演出だったのに、誠に申し訳ないことにスターウォーズ好きにはフォルムがジャワにしか見えなくて)も、櫻井さんの存在を感じさせるステージ作りから伝わる深い愛情。

ーーーようやく私は思い知る。

ただただ、BUCK-TICKでBUCK-TICKを演るということだけが結論だった。

新しい"何か"がズバーンと提示されて、おいおい今井さんついていけないよでもさすがっす👏👏👏みたいなのを心のどこかで妄想していた。

でも私は、今井さんを、メンバーを、BUCK-TICKを取り巻くすべてのものを、変に穿った期待を押し付けるだけ押し付けて、全く理解していなかった。

5人のBUCK-TICKであること、たったそれだけのシンプルで当然な解だったのに。

ゆうたさんがアンコールで話し始めたときには驚いた。
しかもゆうたさんのみ話されるのだと思っていたら、マイクが次々と手渡され、今井さんの言葉。

嗚咽を押し殺すこともかなわず慟哭した。

ー死ぬのは悪いことじゃない、当たり前のこと。
BUCK-TICKというバンドはファンを悲しませることはしないように努めてくださっていると思うが、死はそれに当たらない、故意に人を悲しませるような悪いことではないと言っているのかなと思った。

ー泣いても、悲しんでも、苦しまないでほしい。
ああ、私の大好きな今井寿という人は死生観までも説いてくれるのか。
いつか訪れる大事な人のそのときにあなたみたいになれるかはわからないけれど、こう思えるように努めるよ。

ー1人になっても、ずっと5人。
ひとりでも欠けたら意味が無い、完璧じゃないと思っていてごめんなさい。
生ける肉体を持つ者が何人になったとしても、5人のBUCK-TICKなんだ。

その夜、お風呂でMCを反芻していたらふと、なぜだか、"いっぽんでもにんじん"の鼻歌が自然と出てきてしまって、また泣いて少しだけ笑えた。

私はこの日、BUCK-TICKがBUCK-TICKであったのを観た。あり続けようとした、と言うべきか。

私にとってこの日、BUCK-TICKは音楽だけのものじゃなくなった。

この日観たのは、5人の生き様であり、人生だ。

私とBUCK-TICKの生きる人生は当たり前だけれど違う道。だから一生この先着いていきますといったような無責任なことは言えない。

けれど、BUCK-TICKが走るレールを、人生を、私のそれと交差させることを自分が望む限りは。

まだまだ涙は図太く居座るだろうし、未だ見ぬ最高の新作に櫻井さんの新しい最高の声がのらないのは心底悔しい。

それでも、これからのBUCK-TICKの生き様が見てみたい。
僭越ながら、見守りたいとさえ思う。

覗いた先がたまたま真っ暗な洞窟のなかでも、今井さんが先頭で懐中電灯持ってて「わかんないけど行ってみようぜ!」ってにやにや笑ってるから、恐る恐る、でもわくわくしながら着いて行っちゃうんだろうな。

BUCK-TICKの音楽が好き、ではなくて、BUCK-TICKが好き。
自分にしかわからないような違いだけれど、5人がLOVE MEを演奏し終えたその時、私は鑑賞者ではなく同乗者になっていた。

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