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そこにいないことに、いつ慣れるのだろう
13日は父の一周忌だった。
コロナ禍のいま、出席者も高齢者ばかりということでこの時期に法要は無理だねとなり、弟は仕事の合間をぬって前日に、母は混んだ電車に乗って東京に来るのはまだ危ないということで自宅の位牌の前でお経を読んだ。
私は墓参りにゆくつもりが朝から激しい雨で「こりゃ明日でもいいかな…」なんてくじけそうになっていたのだけど、ふと気になって母にたずねた。今日父(の魂)はどこにいるんだろうと。
するとこんなLINEがきた。
父の遺影と位牌の前にちょこんと座ってお話する母の姿がまざまざと浮かんできて、可愛ささえある文面にかえって泣けてきてしまった。正直、父の葬式の時より泣けた。
変な言い方だけど、目の前で死んでいることよりも、ある人の横に本来いるはずのその人がいない、その空間の方がかなしく思えるのかもしれない。
というわけで雨が弱くなった夕方に谷中に出かけた。
雨の谷中霊園はしんと静まり返っている。
けむるスカイツリーと、不似合いなほど鮮やかに生きているつつじ。
父の墓前には、午前中に法要を済ませてくれたお寺の方と、父の飲み仲間の方々が手向けてくれたシキビとお花がぎゅうぎゅうで、「墓前盛り上がってんじゃん…」とうれしくなった。墓石には葉が3枚並べてある。友人たちの「来たよ」というメッセージだろう。私も1枚付け足す。
ねー知ってる?今年は新型コロナウイルスってので大変なんだよ。あの入院や闘病が今年じゃなくてせめてよかったよね。あとさ、ママ淋しそうだし時々は姿あらわして一緒にいてあげてよ(笑)そっちは慣れた?認知症とかそういう病気はそっちはもうないだろうから、そろそろ好きに酒飲んだり俳句作ったり自転車乗ったりしたらいいじゃん。
そんなふうに話をした。
雨の音しかしない夕方の霊園。周りじゅうにいる、お墓に眠るひとたちは何もこわくない。彼らは休んでいるだけだ。縁のあるひとたちの訪れを、自分たちを思い出してくれることを、ただひたすら待っているだけ。
帰り道に気づく。私が着てたTシャツは胸にでっかく荊冠をかぶったジーザス・クライストが描かれてたよ。まあいいや、神も仏もまとめてよろしくだ。
「好きな人、ずっと長く一緒にいた人と別れる」ということは人間の味わう悲しみや苦しみの中でかなりどデカいことであり、もっとも心身にストレスがかかることなんだなと最近しみじみ思う。死はもちろんだけど、友人や恋人や推しとの別れでもおんなじことだ。昨日まで会えた人ともう会えないこと。天からの罰かと思うほどのダメージがくる。でも誰にも避けられれないし慣れもしないから、せめてその先にまた光があることを祈るしかない。
早くまたみんなで集まれる日が来ますように。
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