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コロナ禍中の幸い

コロナ禍はファッキンシットでしかないけど、よかったことがあるとすれば、Twitterで「しびれるほどにかっこいい言葉の使い手」「文章の深さと優しさに毎回頷きまくってしまうアカウント」「思いや考えたが近しいひと」「素敵な絵や本」に出会えたことだ。

この間(かん)、私はどんどんRTやお気に入り(いいね)やフォロイーを増やしていったし、Evernoteにクリップした情報も日々積もってゆく。
元々私のTwitterの発信以外の目的は「日々の記録と人との交流」ではなく「あらゆる言葉を読みたい」なので、それがこのタイミングでめちゃくちゃ増えた幸せがある。みんなに時間ができて、さらに言葉でも絵でもおすすめの本でも何でも、「発信したいこと」が増えたからだと思う。

「硬直した現状」という等しい議題があったから「それにどんな表現を投げかけるか」かが一斉に行なわれた結果そうなった気がする。それだけはコロナ禍による自粛が生んだよきムーブメントのひとつだ。

あと、「イヤなもんはイヤ」「それはおかしい」を、皆が前よりは言いやすくなってきたかもしれないこと。そして「政治ようわからんからほっとこ」はヤバい、という空気になったこともよかった。

興味深いことに、リアルでもつながっている同じ趣味の人たちはコロナ禍になってもツイートはさほど変わらない。日常のつぶやき&友人との交流が続いている。政治についての言及はほぼない。それは「Twitterをこう使いたい」という思いの現れで、それが悪いとかは全くなく、その人のスタイルなのだからそれでいいのだ。(そしてその人たちにとって、完全にTwitterの使い方が異なる私のツイート雨あられはさぞや騒音だろう…と思うとマジで申し訳ない)

それとは別に、私が「この人の言葉の使い方が好き!」と思ってフォローした会ったことのないたくさんの人たちは、日常をつぶやく人、映画について語る人、あるアーティストのコアファン、など属性は色々なのに一気に政治についての言及を始めていて、「好きな言葉(文章)を書く人」は「いま考えていることをここに書き出したい人」なのだな…ということに気づいたりした。
(繰り返すけど、語ること。あえて語らないこと。そこには何の優劣もない。それぞれの自由なスタイルだ)


リアルでも文章でも何でもいい。言葉そのものと、それを何とか駆使していまの自分をあらわそうとする人が好きだと改めて思う、このきゅうくつな日々よ。

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あゆみ
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