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棚の向こうで。
特に目当ての本はなかったけど、目が合う本があったらいいなとフラリと入る。
駅前の本屋。仕切りのように正しく林立する棚の向こうの誰かの会話は聞こえてくる、でも姿は見えない。
「どれでもいいって言うなら買えるよけどそういうもんじゃないでしょ。色々な種類があるわけ見渡したって。こっちは選ばないといけないのよ」
目の前の棚の向こうから、携帯で誰かと声高に話す男性の声。ふたつの文章を息継ぎなく続けて話す癖がある。芸達者な役者を集めて作ったドラマ。人気脚本家による台詞にそういうのがよくあるけど、フィクションで聞くと妙に心地よく個性が出るその喋り方(高橋一生あたりが喋るときっとハマる)は、現実社会で聞くとひたすらとげとげしい。この人は普段からこうなのだろうか。電話の向こうの人は彼におつかいものを頼んだことをきっと後悔している。
会話が終わったので右側から出てくるのを見ていたら、半白の毛量多めの中年男性が早足で帰っていった。
背後の棚の向こうからポンと飛び込んできた男性の声。
「乳首はデカい方がいいだろ」
唐突すぎる。そして個人的には自分の周囲であまり聞いたことがない嗜好だ。えーと、乳輪じゃなくて乳首なのか。授乳経験のある女性をのぞいて、乳首自体に大きさの個人差というのはさほどあるのか…?待てよ、三次元の話じゃないのかもしれない。そもそも人間の、女体の話ですらないのかもしれない。
「えーっ」「でもさあ…」と他の2人(男女)の声もするが、彼らの意見はあまりよく聞こえない。全員の声の感じがとても若いので、たぶん高校生か、せいぜい大学生だ。そして先ほどの男性の声がもう一度会話を締めくくる。
「いや、やっぱ乳首はデカい方がいい」
棚を回り込んで顔を見たい気がしたけど、やめておいた。
「ねえ、こっちは字だけだけど、自分で頭の中でわーっと想像できるんだよ。絵があるのばっか見てるけどさ、こっちもいいと思うよ…どうする?」
「ん……」
「どうする?」
「じゃあ…両方」
「どっちも欲しいってこと?」
「うん」
「じゃ、そうしようか」
「うん」
どうやら母娘らしいやりとり。お母さんは選ばせているようでわりとパワーで誘導している。娘の無言の時間が多い。
「あ、これはどう?本を読んだ感想を書けるノートです!だって」
「んー?」
どんどんお母さんのペースである。たまらず、さりげなくのぞいてみると、「アナと雪の女王」の絵本を開いているちいさな女の子。お母さんは字だけのアナ雪本と、読書感想文が書けるアナ雪ノートを手にしている。その子の顔を見て勝手に斟酌する。これは、親の思惑と願いが分かってて、気を使って答えてる顔だ…。
お母さんの気持ちはよく分かる。だけど「字が読みたいな・書きたいな」という思いは、自発的に芽生えた方がいいような気がする。勉強以外で強く勧められると、せっかくこれから生まれるかもしれない「ことば欲」が自由なものではなくなってしまうかもしれない。今は読みたいものを好きに読ませてあげたらいいんじゃないのかな…。
ことば欲だけで大きくなった(そしてそれで細々と綱渡りで暮らしている)私はそう思ったけど、完全に余計なお世話だ。
結局、何も買わずに本屋を出た。
いつのまにか日が暮れている。
今日は全然仕事をしていない。
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