
2024年3月 アチェに行く
念願のアチェへ
2024年3月。少し仕事の空きができたので久しぶりに旅にでようと考えた。行くのはやはりアチェだと思った。
24年ほど前、大学時代の初めての海外ひとり旅。
タイからマレーシアを経由して船でインドネシアのスマトラ島に渡った。その時、アチェは独立運動で内戦となり、ツーリストが入れる状況ではなかった。
そして、2004年12月26日。
スマトラ島沖でマグニチュード9の大地震、その津波により、アチェは壊滅的な被害を受けた。
復興せねばと、独立運動の機運も薄まり、アチェの内戦は終わった。
それから20年・・・訪ねてみたいと、ずっと思っていた地域にようやく足を向けることにした。

船でスマトラ島へ
旅の前に、「地球の歩き方インドネシア」を見てみたが、やはりアチェのことは載っていなかった。とりあえず目指せば何とかなるかと、以前の旅のように、スマトラ島へは船で行くことにした。マレーシアのマラッカのフェリー乗り場から、スマトラ島のDumaiへ。ネットで調べたタイムスケジュールはやはり古く、現地で聞いた出発時間と違っていた。


2024年3月の現地で見た時刻表。この日は木曜日KHAMISだったので、
14時30分出発の船で2時間ほどでDumaiに到着。マラッカ側では出国審査もあったし、インドネシアのDumaiに着いたら入国審査もある。
そして今、インドネシア入国にはビザが必要。
事前に入手しなかったので、入国時に35ドル支払ってビザをもらった。
スマトラ島のDumaiにて
港から外に出ると、予想通りバイクタクシーのおじさま方が集まってきた。その中で、日本語も少し混ぜながら英語を話すおっちゃんがいた。

ん?このおっちゃんどこかで見た気が…
事前にネットで見ていた他の旅行者のブログに登場していた方だった。なんか面白かったので、この人と料金交渉して、メダンに行くバスのチケット売り場まで連れていってもらった。
バイクタクシーの後部座席に乗り、スマトラ島の町の喧噪の中を走る。
クアラルンプールやマラッカとは違う土埃舞う町、けたたましく行きかうバイクや車の波、これぞ‟アジア”と久々にみた光景に胸が躍った。
およそ20分、小さなチケット売り場に到着した。
バイクタクシーのおっちゃんには、事前に料金を渡していたが、別れ際「ご飯も食べたいからもう少しお金ください」みたいなことを言われた。それなりに料金を渡したと思ったので、それはお断りしたけど、愛嬌もあって、いいおっちゃんでした。


Dumai→メダン
メダンまでは225,000RP(約2200円)の夜行バス。チケット売り場に迎えにきた車でバスターミナルまで移動、そこで夜行バスに乗り換え19時に出発した。
途中、夕食として立ち寄ったドライブインらしきところで食べた麺が青唐辛子の辛さも強かったけど、おいしかった。


スマトラ島一の都市メダンにて
翌朝メダンに到着。細かい時刻は忘れた。
目的地であるアチェに行くには、もう一回、夜行バスに乗らなければならない。さすがに連日夜行バスもしんどいので、メダンで一泊した。
メダンはスマトラ島で一番の都市。とにかく車やバイクが多い。
その割には信号は少ない。よく事故が起きないものだ…と思ったが、帰国後調べてみると、インドネシアの交通事故による死亡者数は東南アジアでも最も多いらしい。
警察もほとんどみかけない。ただ交差点などで、信号がないかわりに交通誘導している人を多くみかける。だいたい手にお金を握っているので、仕事としてやっているらしい。
通った車の運転手が、お礼としていくらか渡しているようだった。
本当にインドネシアの人はたくましい。お金になりそうなことがあると誰かしらがやり始めるんだな。

フリーパレスチナの集会に遭遇
メダン滞在中の夜、宿泊していた宿の隣のモスクで、フリーパレスチナの集会が行われていた。勇ましい男性だけではなく、家族で参加していたり、高校生グループで参加していたり、老若男女集まっていた。数千人が参加したらしく、バイクや徒歩などでたいまつを掲げながら行進。
ときおり記念写真を撮りながら参加している様子もみられ、和気あいあいとしていた。




参加している人によっては、カメラを向けるとポーズをとってくれたり、終始おだやかな集会だった。
アチェ到着
その翌日、20時発の夜行バスに乗りアチェに向かう。
アチェ州の州都バンダアチェ到着は午前9時。バスターミナルに到着するや例のごとくおっちゃんたちが集まってきた。バイクタクシーやベチャ運転手、普通の乗用車のドライバーなど。
バイクタクシーのひとりと交渉して、とりあえず宿に向かった。
宿は事前にagodaで予約。
町の中心部から少し離れたところの1泊1200円のシングルルーム。
チェックインは14時からなので、とりあえず荷物だけ預けて町を歩く。

つづく・・・