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この人に自分の腎臓をあげられるか?


私の中で、『愛情の度数』を測る1つの指標がある。 

それは、、

『もしもこの人が腎臓が必要になったときに、
(私は)腎臓をあげることができるだろうか?』

、、、というのも、
私の周りに、実際に腎臓移植をされた人がいて、
2年ほど前頃、立て続けに2人の人から腎臓移植の話を聞いたのがきっかけ。

貰った側と、あげた側。



夫の2回目の大学時代の同級生が、骨髄バンクに登録し、ドナーになった事がある。幸い、健康被害はなかったが、1週間程は寝て過ごしていたそうだ。

しかし、腎臓は身体の2個あるうちの1個をあげる事になる。


1人は、娘たちの元バイオリンの先生。60代?女性
(ご主人の腎臓を提供された)

以前より、腎臓機能が悪く、医師から透析を勧められていたらしけど、演奏活動が出来なくなる事や、食事改善などで自然治癒力を信じて拒否。

ご自身で雑穀マイスターの資格を取られ、八ヶ岳(だったかな?)の雑穀を中心とした食事でだいぶ改善されていたご様子。

が、とうとう腎臓移植のために海外に行かれたのだけど中止され、ご主人から腎臓を貰ったと。

都会の生活は辞めて、今は八ヶ岳の麓に移住して大自然の中で生活。
演奏家として、自然の中やコンサートホール、また、料理教室もされていらっしゃいます。

もう1人は、ご近所のTさん。40代女性。
(ご主人に腎臓をあげた)


私が住む高齢者ばかりの団地で、私がしていた役員を引き継ぐ役員会議の際に、役員になった高齢女性が「足が悪いから仕事は出来ない」と言われた。
(役割の数に対して、人数が足らないなぁ〜)

と少し困っていたら、新規で役員になったTさんが、
「私、部長ともう一つやります。残った仕事をやりますから好きなの選んでください」
と自ら立候補してくれた。

(この女性、凄っ!!部長とか、やりたくない人が多いのに、さらにもう一つ⁈女っぷり?姉御肌の女性❣️

あー、この人と友達になりたいなぁ〜

と、思った。

数日後、Tさん宅に部長の仕事の引き継ぎに行く機会に、お菓子と果物を持ってお近づきに!お互いの自己紹介。

その際、
「看護師をしている時に主人と知り合い結婚した。
主人に腎臓をあげた。
今は、主人が自営の大工の仕事が1人ではできないので、看護師を退職して、主人の仕事を一緒にサポートしている。」
との話もでてきた。

(凄い!!!凄過ぎる!!
そりゃ、こんな器の大きな人からしたら、役員の仕事を1つや2つ引き受けるなんて大した事無いよなぁ。
それにしても、どんなナイスな旦那さんなんだろう??)

保護猫が2匹。手作りの大きな猫の小屋をリビングに設置してある。
天井には梁を出して、土間をつくり薪ストーブ。
自分達でリフォームしたとの事。

そんな話をしていたら、旦那さんが帰宅された。
リビングにいた小学生の息子さんが、さっとお父さんに抱きつきに行く。
旦那さんは、寡黙だが、妻から聞いたであろう団地の役員がもつ鍵入れボックスをおもむろに手作りで作り出した。

(旦那さん、寡黙だけど子供が抱きつきに行くぐらいから、いいお父さんしてるんだろうなぁ〜。しかも、役員の鍵ボックスも作るなんて、、気が利く人だなぁ)

と、ご夫婦共に感心した。


立て続けに、夫婦間での腎臓移植の話を聞くことが続いたので、


『私は夫に自分の腎臓をあげられるだろうか?』

と考えた。

まぁ、あげるだろうな。

いや、まてよ!
夫に腎臓一個あげたら、子供達が腎臓が必要になった時には私にはあげる腎臓が無いやん!
しかも、子供は3人だし。


まるで、映画『貞子』で、松嶋菜々子が子供の命を助ける為に、おばあちゃんに犠牲になってもらうために母の元に車を運転するシーンを回想した。

他の人にはどうだ?

昔、好きだった人を想像してみる。
この人と結婚してたら良かったーーーって思う人がちらほら。
しかし、

(、、、あげられんわー)
いっときの感情だからね。

夫とは、波瀾万丈だったけど、
苦楽を共に一緒に歩んだ歴史がある。
既に、いい面、嫌な面含めて自分の一部だ。
それに、私の中で、子供に対する責任のような覚悟がある。


他の人はどうだろう?


翌日、バイト先で、メンバーに、
腎臓移植の2人の話を聞いた事を話した。

私「ご主人に、腎臓、あげられる?」

40代のYさん。
「あげますよ! 旦那に腎臓、あげますよ!」
即答された。

「えー!そーなん?凄いねぇ、、」
でもさ、そしたら子供にあげられないよ?」

「あー、そうか。なら、やっぱりあげれないですね〜😆」

どちらも、3人の子供がいる
夫より子供が大事なのは同じなのねー😆



「血液型が違うから、どーなんだろ?」

「笑 そっかー、じゃあ、ダメじゃん😆」

「ん?血液型が違っても確か良かったはず、、、」

こんな、
「取らぬ狸の皮算用」の逆バージョン
「あげる狸の皮算用」
みたいな話をしていた。




(誰か、私に腎臓をくれる人がいるかな?)

両親は、子供優先だから、もちろんくれるだろう。(使えるかは疑問だけど)


夫はどうだろう?

夫に訊いてみよー
疑問は訊いてみないとね。

(とはいえ、、ドキドキ)

私「私が腎臓が必要になったらくれる?」

夫「ん〜、あげるんじゃ無いかな?
 僕はAB型だから、誰からも貰えるよ♡」


(他にいなかったら、、、)
って前置きがあったような気もするけど、忘れちゃった。

日頃の言動は、
(冷たいなぁ〜)
と思うことも多いけど、とりあえずセーフか。

(ん?口先で言ってるだけかもしれないな🤔)

子供達にも、

私「パパさぁ〜、ママに腎臓くれるって〜。
ママの腎臓も、いざとなったらあげるね〜」

息子「ママの腎臓、そもそも、大丈夫なん?笑」

私「そっか 笑。ママもさぁ〜、今の腎臓は脂肪だらけだから出来るだけ健康な腎臓にしておかないとね〜😄」

と、半分冗談、半分本気な話。


本来ならば、、
無職の愛の人ならば、、

アンパンマンのように、誰にでも自分の顔をちぎってあげられたらいいんだろうけど、、、。
ジャムおじさんに新しい顔を作ってもらえないしなぁ〜🤔


仏教にも、有名なハトとタカの例え話がある。
お釈迦さまの元に、鷹に襲われた鳩が助けを求めて逃げてきた。
タカは、「ハトを助けるなら自分は飢え死ぬ。自分も助けてくれ」と。 
お釈迦さまは、ハトと同じ重さの自分の太ももの肉を削いでタカにあげる。という話。
(天秤にかけたら、ハトと同じ重さにするには自分全体乗せてようやく釣り合った、という話もある)

アンパンマンやお釈迦さまの様に、
無償の愛を放てるか、、、。
(まだまだ無理〜)


ま、こんな感じで、、

それ以来、私は、
『この人に私の腎臓をあげれるか?』

という、妄想での愛の基準ができた。


イエスの人には、

損得なしの、いいも悪いもない、
無償の愛
❤️ってやつを
できるだけ渡そうと意識している。

また、私や家族に、無償の愛をくれる人にも。

そう思って親孝行する為にUターンもした。


こう思うと、姑も大切にしないとなぁ、、
と思う。(怖いけど)



さらに、子供達にも、

生涯のパートナーを選ぶ時に、

いっときの感情だけではなく、
いざという時に、
自分がどのように対応できるのか?
相手がどのように対応してくれるのか?
を想像してみて。

と話している。


そして、、、
さらに、、、

愛の定義については人それぞれだけど、、、、

(よく、芸能人とか、人は、『愛してる』って軽く?言うけどさー。
じゃ、相手が腎臓が必要なシュチュエーションになったら、あげられるのかなぁ??)

などと、、たまに思ってしまったりもする💦
(意地悪か、、💦)

純粋な人は、「愛してる」とか言われて、頂き女子やロマンス詐欺にあっちゃうやん…。

そりゃ、、「愛してる💕」なんて言われたら、飛び跳ねるくらい、嬉しいんだけどね〜。

んーーーー。
みんな、究極は、どうなんだろ。
そんな事、考えないのかなぁ、、。

サランヘヨ〜💖
(腎臓は簡単にはあげられないヨー)

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