他人の芝ってなぜか青く見えてしまうよね
うまくいくこと。
うまくいかないこと。
嬉しいこと。
悲しいこと。
あげだしたらキリがないくらい、生きていると楽しいことも、辛いこともたくさんある。きっと人生は全部合わせるとぴったり0になるようにできているんだと思う。
楽しいことばかりではないし、辛いことばかりでもきっとないから。
こんなことが言える私はもしかしたら幸せなヤツだと言われてしまうのだろうか。辛いことしかない人だっているのに。と。
きっと誰しも、他の人を見て「いいな」と思う瞬間がある。
それは、隣の人が頼んだ料理の方がおいしそうだったなとか、あの子の服かわいいなとか、そういう小さな「いいな」から、
あの人の生き方楽しそうだなとか、仕事があんなにうまくいっていてうらやましいなとか、ちょっと規模の大きな「いいな」まで。
この世はきっとたくさんの人の「いいな」であふれている。
欲しくて買ったもののはずなのに、他の人が買ったものの方がよく見えたり、
今でも十分に恵まれた境遇にいるのに、誰かが結果を出しているのを見るとその人の境遇がうらやましく、そして今の境遇で満足している自分に悔しく思ったりする。
そんなの意味がないと思っていても、誰かを見てうらやましいと思ってしまうし、そんな自分に嫌気がさしてしまう。
自分の小さな喜びなんてちっぽけに感じてしまうし、こんなことで喜んで何をやっているんだと落ち込んでしまう。
そんな時にふと言われた言葉。
「そこに届くと思ってるからうらやましいと思うし、悔しいと思うんだよ」
はっとさせられた。
私は中学から大学まで4年間テニスをしてきたが、実力差で敵わない相手に負けても悔しくは思わなかった。私の実力では敵わないことは分かっていたし、勝てるわけもないと思っていたから。
確かに、悔しいと思う相手はいつも自分の近くにいて、どこか自分と似ていて、そして似たような領域で活躍している人だった。
自分は無意識にそこに食い下がろうとしていたのか。
そうか、自分はそこの場所にのし上がろうとしていたのか。
一番自分を認められていなかったのは自分じゃないか。
自分のことは自分が一番わかっているなんて思っていた。
負けず嫌いで、自分勝手で、縛られるのが嫌いで、飽き性で、そして時々そんな自分のことが嫌になる。
そういう風に思っていたけれれども、もしかしたらそんな自分は自分のほんの一部分だったのかもしれない。
人はだれしも「他人の芝が青く見える」ことがある。
「いいな」という気持ちが自分で認識できてしまうほどに大きくなってしまうこともある。
いけないことだと思っていたけれども、そこに向かって自分なりに頑張ることができたなら、下ではなく、前を向いて進もうと思えることができたなら、この気持ちも全くの悪ではないのかもしれない。と、そう教えてもらった。
そして、他人をうらやむだけではなく、自分の成功を自分が一番喜んであげられる存在になろう。
褒められた時、感謝してもらったとき、誰かにその事実を認めてもらうのではなく、自分でしっかりと受け止めて、そして自分で自分をしっかり褒めてあげる。「頑張ったね」「よくやったね」って。
そして、そうすることで、わたしは今よりもすこしだけ強くなれる。
きっと自分を一番大切にできるのは自分以外にいないからこそ、「わたし」という一人の存在をちゃんと認めてあげることからゆっくりと始めていこうと思う。