ある在日朝鮮人4世の記録 #1

 去年の9月から生まれて初めて日本の外に出て生きている。
日本の外に出てみて改めて自分のルーツ、アイデンティティについて
さらに考えざるを得ない、ある意味で悩まざるを得なくなった。
考えても考えても答えは出なくて、在日1世や2世の方の本をいろいろ読んでみたけどその時代の苦労と今私が生きている時代とは繋がっているけどやはり別物。1人の在日4世として1990年代から今まで経験したこと、そして今日本の外に出て感じていることをざっくりと文章にまとめて残してみたいと思った。
誰が読むんか誰も読まんか知らんけど。

この話にオチは無いが、書き始めたらとても長くなりそうな予感…

 30年と半年ぐらい前に日本で生まれ、
物心ついた時から両親を「オンマ、アッパ」と呼び
朝鮮学校に通い、国とかっていう概念を知る前から朝鮮人として生きてきた。

 実家から自転車で15分ほどの場所に朝鮮学校があった。
小さな小さな学校。私のクラスは全員で8人。これは多い方だった。
ほとんどのクラスが4人や5人、多くて9人。私の一学年上の代は居なかった。
そんな小さな学校は工場地帯に建てられたので周り近所ぐるっと町工場に囲まれている。運動場はバレーのコートがギリギリ入るぐらいの広さ。
そこで私は付属幼稚園から初級学校卒業までの9年間を過ごした。

 「力がある人は力を、知恵がある人は知恵を、お金がある人はお金を出し合ってハラボジハルモニたちがこの学校が作ったんやで」という話を私たちはよく聞かされていた。
その学校は1948年に今ある場所とは少し離れた場所に当初建てられた。
その後1970年に今ある場所に移転、新校舎が建てられ、1993年に修築がされたようだ。校舎に入ってすぐの場所に「創立功績者・委員/新校舎建設功労者・委員/修築功献者・委員」の名がずらりと並んでいる。
 1993年学校修築功献者の中に私の父方の祖父の名がある。私はそれがいつも誇らしかった。私の祖父以外にも同級生の祖父たちの名がいろんないくつも並んでいて「ああ本当に私たちのハラボジ、ハルモニたちが作ってくれた学校なんやなあ」と見る度に実感したのであった。(しかし名前が載っているのは男ばかり…)

 私の父も父の兄弟もみんなこの学校に通った。
友だちの親もほとんどが私たちと同じ学校か、他地域の朝鮮学校の出身だった。
私の母は私の地元よりもっと南東の、朝鮮人がたくさん暮らしている地域の出身なのでそっちの朝鮮学校に通っていたらしい。また私の地元には朝鮮高校は一つしかないので、ほとんどの友達や先輩後輩の親は自分の親の同級生や先輩や後輩であった。もちろん親戚同士、いとこ同士もたくさんいる。なんとも狭く密度の濃いコミュニティである。


 小学校2年か3年の頃やったと思う。北朝鮮が拉致問題を認め、連日テレビは大騒ぎだった。黒板の上に肖像画が飾られていたので私たちが毎日眺めていた金正日のことや、祖国だと思っている朝鮮という国のこと、自分や友だちや先生たちの朝鮮式の名前、朝鮮の言葉、歌、楽器、教科書……。学校の中のものは外の世界のものとは別のものだと思っていた。しかし外の世界で毎日見ていたテレビの中の人たちが、朝鮮や金正日のことを話していた。学校の中だけの特別な世界と外の世界が初めて交わった瞬間だった。
 初めて“拉致“という難しい言葉を知った。学校の先生は「拉致は決して許されることじゃない、とても悪いことだ」と教えてくれた。学校の中での我が祖国“朝鮮“とテレビで流れる“北朝鮮“のギャップに戸惑った。子どもながらにその報道から悪意や差別の匂いがすることもなんとなく感じていて、テレビから「北朝鮮」という言葉が聞こえると自分のことを指差されているような気持ちになって胸が重たかった。

 朝鮮学校は日本の公立学校ほどたくさんないので生徒たちの家が学校から遠い場合も珍しくない。私の通っていた学校では小学1年生の間までは付属幼稚園のバスに一緒に乗せてもらえるけど2年生からはだいたいみんなバスや電車、自転車で通学していた。私もその頃から自転車で学校に通っていた。制服にも、自転車通学の子どもがかぶらないといけないヘルメットにもハングルで記された朝鮮学校の校章?のようなマークがついている。そもそも地元で小学生がヘルメットをかぶって自転車で通学している イコール 朝鮮学校の子 なのである。拉致問題以降、私たちはしばらくの間集団登下校をすることになった。と言っても、そもそもの在籍学生数が少なかったしみんなバラバラの地域に住んでいたので“集団“と言ってもせいぜい4〜5人にしかならない。それでも当時の高学年のお姉さんお兄さんたちは集団登下校をしたんだと思う。私たち低学年でバスや自転車通学をしていた子どもたちは学校の先生たちがワゴン車や先生の自家用車で送迎をしてくれた。大人たちははっきりと私たちには伝えなかったけれど、きっと脅迫の電話などが私の学校にも来ていたんだろう。

 私がその場面に出くわしていないのか単に忘れているだけなのかは定かではないが、「わしの目が黒いうちは日本の学校に孫を通わせるのは許さん!」と言っていた祖父がこの拉致問題を機に「朝鮮学校なんかにもう行かせんでええ」と父に言ったらしい。
 戦時中に在日2世として田舎に生まれ、祖国解放を迎えるより前に父を亡くし、戦後の混乱期を異国の地で幼いながらに生き抜いた祖父の苦労は計り知れない。若い頃から朝鮮人コミュニティの中で苦労を重ねて祖国を想い、祖国のために活動をし続け、異国の地でも子どもたちが祖国の言葉、文化、歴史を忘れないように、自分たちが朝鮮人であることを忘れないように、そのことに誇りが持てるようにと朝鮮学校の修築にも直接的に大きく関わり貢献して生きてきた祖父がそう言ったらしい。その時の祖父の様子や気持ちは今はもう知り得ないが、かなりのショックだっただろうと思う。当時の北朝鮮拉致問題が多くの日本人に衝撃と怒りを与えた影で、多くの在日朝鮮人もまた衝撃を受け、裏切られたと感じ、怒り、悲しみ、落胆、やり場のない想いでいっぱいだっただろうと想像するのは難くない。


 その私の通っていた朝鮮初級学校と附属幼稚園は2023年に閉校となった。


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