![第4回表紙](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/19902484/rectangle_large_type_2_d4a1a562a72b3d7e32bb0f30ebe701aa.jpeg?width=1200)
駆け抜ける喜び? ペガサス飛馳人生④
どうも、うえなかです。2019年の春節に中国で公開された映画『飛馳人生』の日本版DVD公開を記念して、あれやこれや調べて、わかったことを書いておこうと思います。
前回はこちら
何を描いていたのか?
映画『ペガサス/飛馳人生』は韓寒監督のレーサーとして歩んできた中で出会った人たち、経験してきたことがふんだんに散りばめられています。
レース中に羊に囲まれ、崖から転落していた高花陽選手が監督のチームメイトの高華陽をもじったというのは前に書きました。
真ん中が高華陽選手(インフルエンサー役で出演)右が韓寒監督。
それ以外にもナビゲーターの孫宇強のモデルは監督のラリーでのナビゲーターの孫強だし、(ロン毛です)
葉部長も上海大衆333レーシングのチームマネージャー葉勇がモデルです。
メカニックの記星も上海大衆333レーシングのチーフカニック呉記星がモデルでした。
かつてのライバルで、公聴会で主席だった万和平も国際自動車連盟副主席、中国モータースポーツ連盟の副首席兼秘書長の万和平がモデル(名前変わってません)でした。
じゃあ、張馳と林臻東は?
韓寒監督の所属チーム上海大衆333レーシングに張臻東という選手がいます。
2015年、2016年とCTCC(中国ツーリングカー選手権)で連続チャンピオン。
家が金持ち、ではないけれどレース好き。10歳からカート競技を始めた息子のために経営していた自動車整備工場と部品販売店を売り払ってレース資金を工面してきました。インタビューで張臻東は「林臻東とは全然違う」と答えています。「レースがなければ林臻東のような金持ちのボンボンだったかも」とも。
また張臻東は上海の高速道路でレース行為を行った罪で逮捕されています。サンタナと86ではなく、ポルシェとインフィニティで。見たこともない型のポルシェを見つけたインフィニティのドライバーが追いかけてきたので、逃げた、ということだったようです。復帰直後のレースで彼は優勝しています。
そして、マシンも(「6号車の物語」)
張馳がレースで使ったマシンPOLOにもモデルがいます。張馳がバインブルグで使ったマシンのゼッケンは6でした。
韓寒監督は「6号車の物語」と題するブログでこんな風に書いています。
以下抜粋して引用します。
ヤツはフォルクスワーゲンのテスト車で、彼を待ち受ける運命は「衝突試験をうけ、廃車になる」というものだった。
その年、チームは新しいマシンで来シーズンの中国ツーリングカー選手権に参加することを決定し、フォルクスワーゲン社はヤツをチームに運び込んだ。トレーラーに載せた最後の一台で、しかも外観が整っていなかったため、予備の車として、最も気にとめられない一台としてチームのガレージの片隅に置かれることとなった。
4台のレースマシンが整備され、レースに参加した。チームは指示により、レースマシンと外観が同じ車を用意して巡回し、各地で展示することとなった。そこで、ガレージを増築し、ヤツを引っ張り出して外観を整備した。ただ見た目がレースマシンと同じになっただけだった。
2012年、また新たなシーズンが始まった。第一ラウンドでチームメイトの車がクラッシュ。ヤツはついに代役として第二ラウンドの珠海サーキットに登場することとなった。エンジンを載せたとき、ヤツはチームを驚愕させた。コンピュータエンジニアがどれだけ手を尽くしてもエンジンに点火しなかったからだ。
修理に一晩を費やし、ヤツはようやく恥ずかし気に始動した。チームはこのマシンを私にあてがい、ドアにステッカー……カーナンバー「6」を貼った。ヤツはついに本物のレースマシンと同じようににコースに上がることができたのだ。
第一コーナーで、ヤツはすぐにサーキット中の注目を浴びた……ブレーキの故障で曲がることができずまっすぐにコースアウトしていったのだ。こうして練習走行は取り消しとなり、通り過ぎるすべての車たちから笑いものにされた。当然、これは擬人化した言い回しで、実際には通り過ぎるすべてのドライバーから笑いものにされた。最後にヤツは泥まみれで消沈してピットに押されて戻っていった。
しかしこのレースで6号車はなんとポールポジションを獲得した。ヤツのコーナリングスピードとシャーシーは他の厳選されたどのプロトタイプよりも飛びぬけてよかった。この知らせが上海天馬山のチーム本部に届いたとき、守衛のじいさんは訝しんだ……あれは鉄屑じゃなかったか?と。
しかし、
守衛のじいさんにまでモデルがいたなんて。
それだけじゃありません。もう少し続けます。
数週間ののち、6号車はオルドスサーキットで次のレースを迎えることとなり、皆がヤツに期待を寄せていた。が、不幸な出来事がまた発生した。マシンを輸送していたコンテナがトレーラーから落下し、5号車、8号車はその場で廃車、6号車と7号車もひどく損傷した。
数日間の昼夜にわたる修理を経て、「6号車はリアメンバーの損傷を完全に修復することができず、手負いの状態でむりやり参加するしかない」とチームは表明した。このレースでチームは2台しかマシンを送り込むことできず、目標はただ「ビリにならないこと」だった。
暴雨の中、オルドスでの第一レースで6号車は優勝を獲得した。チームの誰もが信じられなかった。オルドスの第2レースでも6号車は優勝を勝ち取った。
あんなシーンもこんなシーンもすべて、韓寒監督が経験してきたことだったのです。
ありゃ、こんなに長くなっちゃった。もう一回だけ続きます。