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駆け抜ける喜び? ペガサス飛馳人生⑤
どうも、うえなかです。2019年の春節に中国で公開された映画『飛馳人生』の日本版DVD公開を記念して、あれやこれや調べて、わかったことを書いておこうと思います。とはじめてはや幾月、とうとうwowwowでの放送まで決まってしまいました。
時間がかかったのは、こんなレビューを見つけてしまったからです。
ただ一人を記念するために、5億かけて映画を撮った
ここの5億は中国元です。日本円にすると80億!書いたのは影探・探長さん。(リンク貼っときます。中国語です)
これまで色々書いてきたのは何だったのかという気分になりました。もう、「読む人」でいいや。
しかし、「読みたいことを、(日本語で)書けばいい。」と、気を取り直して、探長さんの許可を得て紹介することにします。
彼はこう言います。
評価を一言でまとめると、
前半不合格、後半めちゃすごい。
星も5段階で星3つしかつけていません。「前半は全くもってアマチュア監督のレベルだ」とも。ひどいじゃありませんか。
お笑いのためのお笑い。次から次へとつづくネタは、観客のわきの下をくすぐるだけで、登場人物の設定を深める何の役にも立っていない。
もう、言いたい放題です。
しかし、ですよ。後に彼は
『飛馳人生』のあの純粋な情熱は感動ものだ。だが、より感動を呼ぶのは映画のモデル……徐浪だ。
ひとたび彼のことを知れば、映画の多くのシーンが意味あるものとなる。
と続けます。
探長さんは徐浪を
韓寒にレースの手ほどきをした人物でもあり、その世代の人々に夢の手ほどきをした人物でもある。
と紹介します。(下の写真の右端の人。真ん中はもちろん韓寒監督です。)
徐浪
徐浪、1976年浙江省金華市武義生まれ。
2000年6月、プライベーターとして全国ラリー選手権大会福州ラウンドに参加し、2000ccクラスで2位となったのを皮切りに、
2001年10月 全国ラリー選手権大会韶関ラウンドで2000ccクラス1位
2002年には1600ccクラスの"飛車王"となります。
また、ダカールラリーに参加し、二度完走しています(最高19位)。これは今でも中国人で最高の成績です。
韓寒監督は彼を「中国の最も素晴らしいラリードライバー」とたたえています。
ところが2008年6月、ダカールラリーが中止になり、代わりに参加したラリーオリエンターレで、ぬかるみにはまったほかのチームの車を救出していた時、ウインチのワイヤーが切れ、牽引フックが彼の頭部を直撃、ヘリコプターで病院に緊急搬送されますが、そのままロシアの病院で息を引き取ります。
韓寒監督は上海で棺を出迎え、徐浪の実家のある武義まで運び、関係者を代表して弔辞を述べています。
後に、徐浪について書いたブログで韓寒監督は
私が徐浪と知り合ったのは2002年だった。ラリーに参加したばかりの頃でうまく運転できず、最善策は達人の車に同乗することだと思った。彼は当時私の所属する上海大衆333レーシングにいた。私はオンボロ車で彼の実家の武義にでかけた。彼のマシンに同乗して、ついにラリーではどう運転すべきなのかが分かった。
と書いています。
また、自身のラリー生活十年を記念した文章の最後にも
私はあなたからどのように運転するのかを学んだ。私のレース中のどの動作にもあなたの影があるような気がする。
とつづっています。だからレースの途中で張馳は「時代遅れとは言わせない」と言うのです。
徐浪と『ペガサス飛馳人生』
徐浪が亡くなったのは、32歳のとき。張馳がレースの参加資格を剥奪されたのも32歳です。
そして徐浪が亡くなった時、妻は妊娠六か月でした。生まれてきた子は、本当の父親を知りません。
韓寒監督は、子どものことは心配しなくていい。私たちが立派なレーサーに育てるといい、遺族に上海に引き取りたいとまで申し出ています(もちろん断られましたが)。実際に遺児の面倒を見ています。
そう、張飛くんはそんな韓寒監督の思いが込められたキャラクターなのです。
夢を追いつづけること
また、韓寒監督は
あなたは私に「ある種のものは磨滅することはない」ということを教えてくれた
とも書いています。
探長さんは、レビューの中でそれを情熱と夢を追いつづけることだといいます。
1999年、世界ラリー選手権大会がはじめて中国で挙行された。それを見た観衆の反応は『飛馳人生』と同じく「車はこんな風にも走らせることができるのか」だった。
これによって多くの人が夢を見ることができるようになった。中国人は夢を持ち始めたのだ。徐浪もそのうちの一人だった。
映画の冒頭1分40秒ですでにこの映画は徐浪の映画だとわかるようになってました。
「世界のトップクラスのレーサーたちと肩を並べ」というナレーションの次に自分を登場させる韓寒監督って、とも思いますが。
韓寒作品と徐浪
探長さんは言います
今も韓寒監督の映画には徐浪の影がある。そして彼の映画の小人物たちはいつも夢のために走り続ける。
韓寒の映画はいつも一人の人物を記念している。あの多くの中国人に夢を見させてくれた人物だ。
第1作目の『いつか、また』でも登場人物一人ひとりが夢に向かっている人でした。そして2作目の『乗風破浪』の主人公、本当の母親を知らないラリーレーサーの名前は徐太浪でした。映画の終わりあたり、エディー・ポン(彭于晏)演じる阿正に「どうしてそんなに運転が上手いんだ?」と聞かれた徐太浪は
「遺伝さ」と答えます。
韓寒監督はずっと徐浪のことを描き続けていたのです。
第1作目の撮影開始から5年。その5年の間に
「これまでできなかったことが、できるようになったんだ」と林臻東が言うように、科学技術が進歩し、ラリーカーに車載クレーンを取り付けて激走させたり、超ハイスピードで飛べるようにドローンを魔改造したりして迫力のレースシーンを撮影できるようになったのです。
監督の、徐浪について書いた文章をまた引用します。
去年コリンマクレーが事故で世を去って、徐浪はとても悲しんでいた。今日また彼までいなくなるなんて想像できない。彼はもう一つの世界でマクレーやリチャードバーンズらと雌雄を決する戦いをしているのかもしれない。そこにはきっと同じように速い、永遠に故障しないマシンがあるはず。彼はまた中国レース界の英雄であり、中国で一番のプロレーサーとして、彼が最も好きな仕事と理想のうちに、彼の愛するコースの上で世を去った。
韓寒監督は『ペガサス飛馳人生』を撮ることによって英雄、徐浪を永遠に残しておきたかったのです。
Heroes never die!