「幸せとは幸せなことをするのではなく、自分の心で気づくものである」という仮説について料理しながら深掘ってみた
いま、家で麺を茹でている
「自炊してて偉いねー」
という声が聞こえてきそうだが、
自炊を頑張ってるから料理してるわけじゃなくて
わたしの場合は、ただ自分が何を作ろうかどんな味にしようか、創造心を働かせてごはんを作るのが好きで、実験感覚でやってるだけやなあと、そんなことを自問自答していた
で、なんでこんなことを思考してるかというと
最近ひとりで寂しい時間を過ごすことが多いので
どうにか1人の生活を少しでも楽しいものにできないかなと
考え方のスタンスを見直すことにしたからである
わたしは寂しくてどうしようもないとき、居酒屋やバーなど人が居るところに出かけるだとか、満たされない感情を外に向けて求めがちやけど
それはつまり、今この瞬間は幸せが足りてないって認めてるようなもんじゃないか!!
そんなんしてたら一生「幸せという偶像」を手を伸ばして追っかけ続けるだけやんか!!!!!
これではあかんと思ったので
最近は今ここにある幸せに気づくように自分を鍛えようと思っている
で、そのために必要なトレーニングは
こうじゃなきゃ幸せではないと決めつけない
というもの。これはつまり
パートナーと一緒に綺麗な景色を見れたとか
仕事終わりに生ビールを飲めたとか
Netflixで好きな映画見れたとか
そういうわかりやすくお花畑咲いてる瞬間だけが幸せって訳じゃなくて
自分の心が踊り、「これ好きぃ!!!」って思えばそれが幸せである、ということを言いたい。
わたしの場合、
大好きなニンニク山ほど食べたったわ!
とか
部屋の中掃除してちょっとマシになったわ!
とかね。
で、陥りがちなポイントとしては
一般的には苦労してやらないといけないことを幸せに感じる人もいるというもの
例えば
仕事で必要な資格の勉強してる時が至福の時間な人もいるし
家計簿つけるのって黙々と作業できるのが楽しいから好き、って人もいる
自分を例に挙げると、noteの更新めんどくさいけど発信し続けよう!と自分を鼓舞して無理やり書く時もあれば、今みたいに単純にめちゃくちゃ書きたくなって書いてる時もあるし、
日本で語学の勉強してたとき「頑張っててすごいねー」という周りの声があったけど、忍耐して勉強してるというよりはどんどん言葉を操れるようになっていく自分の変化を面白く感じていただけだった
誰かから見たら「頑張っててすごいねー」ていうことも、当の本人からしたら単純にやりたくてやってるだけなわけで。
そんな状態に対して、わたしは「自分は真面目過ぎる」とか「一緒に過ごす人がいないから勉強して寂しさを紛らわせている」とか自分を否定してきたこともあるけど、それが面白いと感じるのだから、それでOK!と自分で認めてあげるべきやな~~~と思う
まあこれはすごくすごく難易度の高いことでもあるけれど
長期的に見たらこのスタンスで日々を過ごせればコスパよく幸せな状態を持続できるのでは!
なのでわたしが大事にしたいのは
「こうやって考えてることをnoteで言語化できて、面白い!幸せ!」
・・・↑ みたいな瞬間を積み上げて生活していこうと思う
そうこうしてるうちにニンニクたっぷりの胡麻和え麺が出来上がった!
いただきま~~~す