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エゴン・シーレ展感想、中二病の向こう側

シーレ展が30年ぶりに開催され、私は30年ぶりにシーレの絵を見てきた。
時空を越えてシーレの絵を通して高校生の私に
「よっ!」と挨拶してる気分だ。

この30年間、細々と美術館に通い
それなりにいろんなものを見て
仏像まで好きになっちゃった渋茶色ババアである私。

もしかしたらシーレの中二病感に鼻白まないか?
という多少の不安もあった。

いざ東京都美術館で目の前にすると
シーレはずば抜けていた。

高校生の私に
「あんた、見る目あるわよ。いいセンスしてる」と伝えたい。

若さだけじゃない

シーレの題材はまさに思春期的というか若き悩みそのものだ。
死と生と性、反抗、自己愛、挑戦的、逸脱、過激、陶酔、繊細、不安定…
私は百戦錬磨のババア、正直、今さらそういったものに引き込まれはしない。

だけれどもやっぱり卓越したデッサン力、抜群の色彩のセンス、
そして唯一無二の独特の表現力。
やっぱりシーレはすごいし、私は好きなんだわ。

暗く冷たい母

私は反抗的で葛藤を抱えた若者だったので
シーレだけでなく「大人は汚ねえゃ」的な音楽も映画も好んでいた。
すっかり保守ババアとなった今、当時の映画をもう一度見ると
だいたい汚い悪役の大人側に視点を移して見てしまう。

たとえば「卒業」のミセス・ロビンソンは
主人公ダスティン・ホフマンを誘惑する人妻で
昔は「汚れきっている!裏表しかねえヤツだ!」と腹立っていたのだが
最近見たらミセス・ロビンソンの哀しみと虚を勝手に読み取ってしまい
主人公たちの青くさい逃避行はどうでもよくて
「ロビンソンに何があったの?!スピンオフ希望!」となってしまった。

さらに「タイタニック」のローズの母親。
「てめぇは金のことしか言わねぇなぁ!うす汚ねぇ守銭奴め!」
と思っていたが
最近見たら「そうするしかなかったんですよね。お察しします」と
母親に同情してしまった。

そしてシーレ展にも似たような現象が起きた。

30年前はシーレ&女たちの絵しか目に入ってなかったんだけど
意外と母親の肖像や、母子像も多い。
そして描かれた母親の姿はビックリするくらい、暗く冷たく無表情だ。

そこにシーレからの批判や批難の視線はこめられていない。
母に対し何かを求めるわけでもなく、期待するわけでもなく。
蔑んだり同情をしているわけでもない。

それでいて母と子は同一化しているのだ。
境界線は曖昧で、子たちはぎゅぅっと抱きすくめられながら
喜怒哀楽とは違う表情を浮かべている。
「生きてる?」と不安になるような。

シーレにとって「母」とはなんなんだろう。
「母」から想起するものをあてはめてもイマイチしっくりこない。
この人物は誰に似てるかな?と思ったところで、ピンときた。

この人物は母というより死神に近い気がする。
あぁそうか。
母というの「生」と同時に「死」をも、もたらした存在なのか。
さらに母は赤子の生殺与奪の権を持っている。
乳を与えなければ赤子は弱々しくすぐに死ぬ。
それなのに母は飄々と淡々と傍らで日々を過ごすような存在なのだ。

そりゃ不気味だな!

シーレ展に行った前夜、私は娘と派手にケンカをした。
私は頭の固い”かよわき大人の代弁者(by尾崎豊)”的なことを
心の底から”娘の将来を案じて”告げていた。

あぁきっと私はこの死神母のように娘からは見えているんだろう。
不気味な存在から発せられる空虚な言葉が、彼女に伝わるわけがない。

きっとここから先は、彼女自らが人生を紡いでいくのだろうな。

余計な口出しはもうやめよう。
私は死神のような母なんだから…。

秋の木

まさかシーレ展で自戒と反省をすることになるとは…と思いながら
目にしたのは吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)

 風景画コーナーは撮影可だったよ!嬉しい!

私はこの枯れ木そのものだ。
実も葉も花もなく、荒涼とした寒さのなかに立っている枯れ木。
醜く折れ曲がりながらも、それでも四方八方に枝を伸ばして、生きている!

細い枝が白い画面上をひび割れさせるがごとく広がる。
この作品を昔、画集で見たときは「なんだか白い」としか思わなかったが
実際に現物を見てみると白の下に何層にも色が塗りこめられていて
絵の迫力が本当に鬼気迫っている。
私は涙ぐんでしまった。

そんなに孤独でも、細くても、枯れてても。

生きてる~生きている~この現だけがここにある~
生きることはサンサーラ~ あ~あ~

まさかシーレ展を見たあとに
ザ・ノンフィクションの主題歌が脳内に流れるとは。

さすがシーレだわ。

また30年後、会えますか?

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