ヴィゴツキーと芸術
前回からのつづきです。
ヴィゴツキーは心理学の人だが、学問だけではなく文化にも精通した知識人であったという。その時代の文学、哲学、政治、生活、つまりロシア革命直後の知的な若者たちの熱中の渦中で思考していた。それゆえ、その時代の知的潮流に深く影響されている。直接関係はないが、ヴィゴツキーが生きた時代で同じ潮流のなかにいた人物たち。そこで出てくる概念や関係する人物について、もしくはこの本でヴィゴツキーと比較のために取り上げられている現代の作家についてもピックアップしてみた。
1.ザーウミ
20世紀初頭のソビエトにおける芸術運動の根底に流れるテーマの一つにロシア・アヴァンギャルドがある。破綻なく滑らかに進行する日常(ブイト)を批判し、モノのように固定化した強い力を破壊、下層でうごめく弱い力を復活させる運動である。[pp.14]
未来派の詩人マヤコフスキイ(B.Маяко́вский 1893〜1930)は、仲間の詩人たちの作品や自作を朗読し、人々を混乱に巻き込んだ。
「さてみなさん、四人目の詩人クルチョーヌイフは、意味を超えた言葉使い(ザウムヌイ・ヤズイク)による創作をします」
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ドゥイル ブール シュイル
ウベシュール
スクーム
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爆笑、喧騒、口笛、怒号。
「呆れたもんだ!」「ふざけるな!」「金を返せ!」「冗談はやめてくれ!」「シャーマン!」「あぶく野郎!」「道化芝居!」「寝言をたれるな!」「驢馬の尻尾で詩が出来てたまるか!」
マヤコフスキイは平然と紅茶を一杯、さらに一杯と飲み干し、笑みを浮かべた。(……以下、省略)[pp.16]
ドゥイル ブール シュイル……は、ロシア語としては意味をなさない音の配列で構成された「超言語(ザーウミ)」である。既存の語の組み合わせによって構成され、すでに人々が持ち合わせている情動や知覚を再生産することしかしない通常の詩とは異なったものであった。分厚い安定感をもって存在していると信じられてきた言葉の日常、語と意味の輪郭が眩暈のように崩れていく、まさにロシア・アヴァンギャルドである。
クルチョーヌイフ(A.E.Кручёных 1886〜1969?)はザーウミについて次のように語る。
言葉は滅びてゆくが、世界は永遠に若い。芸術家は世界を新しく見いだしたのであり、アダムのようにすべてのものにその名をあたえている。liliya(リーリヤ「百合の花」)は美しいが、「リーリヤ」なる言葉は手垢にまみれ「汚辱されている」。それゆえに私は百合の花をeuy(エウゥイ)と名づける。こうして原初の清廉がよみがえったのである。
(クルチョーヌイフ「言葉それ自体の宣言」桑野隆『夢見る権利』第一章より)[pp.18]
このザーウミの思想は、ヴィゴツキーの「無意味語」と重なる。
2. 民衆的グロテスク
バフチン(M. M. Бахти́н 1895〜1975)は、『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』で、グロテスクなものについて次のように述べている。
近代の規範とは異なり、グロテスクな身体は残りの世界と区切られておらず、閉じられず、完成されず、出来上がっておらず、自分自身を発展させ、自分の限界を越えでてゆく。強調される身体の部分は、外部世界にたいしてひらかれている部分、つまり世界が身体に入っていったり、世界が身体から突出するところである。つまり穴、突起、枝分かれしたものであって、大きく開いた口、生殖器、乳房、男根、太鼓腹、鼻がそうである。
(桑野隆『バフチン』第IV章より)[pp.28]
例えば食事や排泄という行為を考えたとき、身体の表面や先端部や窪みにおいて常に境界の崩れが生じており、そこから身体と世界が同時に噴出している。ここでは、身体の崩れは事物の「消滅」ではなく「生成」の運動を意味している。崩れて世界と身体があいまいに混じり、そこから新しい出来事が発生する。さらに、身体が生成へと立ち戻る"グロテスク"を通じて、バフチンは<時>の奪還を目指した、とも言っている。
この問題設定はロシア・アヴァンギャルドの中心人物のひとりである演出家メイエルホリドにも共通しており、境界の崩れに着目したヴィゴツキーの考え方とも重なります。
(インターネットの時代である現代の身体は、ヴァーチャルな身体も考慮に入れると、さらに境界があいまいになっているような気がします。)
3. ズドヴィーク
ロシア・アヴァンギャルドの未来派の詩人たちは、ズドヴィーク(位置ズラシ)という音の関係の論理を使用していた。
(1)ズドヴィーク、それは朗読のさい(とくに音読の)、二つの(あるいはそれ以上の)辞書に登録された正書法にもとづく単語が、一続きの音(音声)の単語に融合されることをさす。例としては、"so sna saditsja v vannu so l'dom(寝ぼけ眼で氷のバスにつかる)" を "sosna(松)、vvannu(ウヴァンナを)、sol'dom(イタリア銅貨で)" と読み替えたものが挙げられる。[pp.41]
既成の音の配置をずらし、意味を滑らせる。ズドヴィークにおいて重要なことは、それが音の関係を変形する理論であるにもかかわらず、目指されるのは変わった音や面白い音の配置を生成することではない。音を運動させるための論理である。ズドヴィークは既存の音構成の把握とその変形可能性がセットとなって詩的言語の内的論理となっている。
地震の振動という偶発事によってずらされた建物の内的構成、そこからその崩壊をとらえるヴィゴツキーの例と重なる。
4. フォーサイスのダンス
フォーサイス(W. Forsythe 1949〜)はフランクフルト・バレエ団を率い、これまでのダンスから脱構築を展開している。クラシックバレエでは、身体の動きの型が存在している。そのため、ダンスが本来探求するべき身体の動きそのものの生成可能性(崩れの可能性)ではなく、既存の表現体系に身体の動きを従属させている、という転倒が生じている。その結果、ダンス的身体のもつ生成の力能、その「原初の清廉」が消し去られている、とフォーサイスは主張している。
クラシックバレエにおいて、ダンサーの動きは「パ(pas)」という単位に分節されている。「パ」のひとつ、「アントルシャ・シス」は「飛び上がって降りてくるまでに足を都合六回交差して降りてくる」動作である。このひとまとまりを崩し、フォーサイスは「パ」に別の運動方向の「パ」を「貫入」させた。とある「パ」を途中までやって、別の「パ」を「貫入」させる。[pp.43]
このように、フォーサイスは身体―意味関係の惰性化と転倒であるクラシックバレエの「ダンス的ブイト」に強く抵抗し、解体を試みている。即興ダンスにおいて幾何学図形を用いた身体言語を開発した。この身体言語は個々のダンサーの内的論理として機能しているが、この内的論理の設定によってダンサーは、その周囲のありとあらゆる可能なダンスの空間に向かって行くことが可能になる。他のダンサーがこの内的論理を共有している場合、きわめて高度なインタラクションが可能になるそうだ。(自己組織化っぽい。)
5. ドラマ
「個人」をその存在の具体的複雑性において十全にとらえる、ポリツェル(G. Politzer 1903〜1942)の「ドラマ」という視点がある。※ポリツェルはマルクス主義の人として有名であるが、ヴィゴツキーが影響されていた時期はマルクス主義に影響される前であった、とされる。[pp.71]
「ドラマ」は個人の生活の唯一性という見方と深く結びついている。個人の生活のありようはいかなる他者の生活のありようとも完全に一致することはない。つまり、ある個人の生活のありようはこの世界において唯一無二である。一方、一般的に科学は個人を排除して「人間一般」として記述する。これに対してポリツェルは客観的心理学を非難し「三人称の心理学」とよび、心理学は「一人称」的でなければならないと主張した。「私」の生活から生じる心的体験の具体性、唯一性、交換不可能性から出発、そしてとらえられた個人の在りようがポリツェルにとっての「ドラマ」である。
すると、個人の人格は「情熱」「けち」「嫉妬」などさまざまな精神機能の衝突と結合、としてとらえることができるという。この衝突、葛藤、矛盾がヴィゴツキーにとっての「ドラマ」である。ある人物のさまざまな精神機能(それ以上分割不能な「単位」としての精神機能)の間の関係はその人物が生きている限り固定化しない。さまざまな現実的諸条件によってその関係を複雑に変化させ続ける。この現実的な生活の諸条件を文脈として展開する精神諸機能の衝突のドラマを理解することが、具体的個人を理解することにつながる、とヴィゴツキーは主張している。
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以上、わかりにくかったかもしれないけれど、書籍『ヴィゴツキーの方法』について理解するためのまとめでした。私の研究とは直接関係はないけれど、参考になる要素や考え方などに触れることのできる書籍でした。