動物と対峙する

野鳥観察をしているときや、のらねこと対峙するとき、
飼われている動物と戯れているとき、
わたしは人間と喋るときよりも楽だなと感じる。
そのことについて考えてみた。

動物と対峙するとき、相手の意思や気持ちを把握することは難しい。
なぜなら、言葉を話さないからだ。

人間と対峙するとき、相手の意思や気持ちを把握することは、
会話などのコミュニケーションによって可能だと思われている。
言葉によって伝えられることは多い。

実際は違う。
言葉によって知ることができる情報は、相手の意思や気持ちの一部だ。
あるいはそれに満たないものであるかもしれない。
言葉では思っていないことを伝えることもできるからだ。
言葉でなく、態度でも嘘をつくことができる。
人は、分かり合っているようで、
いつまでも「分かり合ったつもり」どまりである。


しかしながら、人と人とのコミュニケーションにある前提は
「人と人は分かり合える」であるから、
人間と対峙するときには、これが足かせになる。

『シートン動物記』で描かれるように、
動物と人が分かり合えたと言われる場合もあるが、
動物と人は、基本的に「分かり合える」ことを期待されていない。
このことが動物と対峙するときの「楽さ」の正体だろう。

人と人も、ある意味当たり前のことだけれど、
「分かり合えない」ことを前提にすると楽になるかもしれない。

でも「分かり合えない」ことは、少し悲しい。

分かり合う、というか
相手を知ろうとする態度が重要なのだと思う。


2016/04/17

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