与えることを知らない人は失うことも知らない
さあ、いよいよフランスへ視察に行く日が近づいてきました。
今回の目的は学び以外の何物でもないのですが、入国審査にひっかからないか、ごはんはどうするのか、どれくらいの服をもっていけばいいか、と小さいことでオロオロしているしょぼい人間です(笑)
海外に行くのは、実に15年ぶりなのです。
前回はバングラデシュ人の彼氏と付き合っているときに、バングラデシュに行きました。この話を深堀すると、だーいぶ脱線するので今回は割愛しますが、ご興味のある方(?)は、どこかでお話ししましょう(笑)
さて、今日のタイトルの言葉は、パランパルミルの創設者であるカトリーヌ・オンジョレと先日お話しした時に、彼女が語っていた言葉です。
与える・与えられるということから生まれるものは、本当にたくさんあると思います。
愛情や驚き、嬉しさ、喜びといった感情もあるでしょうし、気づきや経験といった新たな発見もあるでしょう。
与えるという過程には、与える側のの苦労や、考えや、思いもあって、誰かの時間(=命)も使われています。
与えられるばかりでなく、与える経験をしているからこそ、その大変さにも目をむけることができます。
もしそれが、無意味なものになったなら、逆効果となったなら、と考えたときに、湧き上がる悲しみや喪失感、怒りのようなものも想像することができます。
ウィーズの活動でも、過去に「与えられた」と感じたことのある人が、自分も「与える」側に回りたいとして活動に参加してくれることが多くあります。「与える」側に回ったときに、「与えられた」ことの嬉しさが増し、「失う」ことへの痛みや苦しみに強い共感を覚えるようになることがあります。
もしかしたら、フランスのパランパルミルでも、多く経験されてきたことなのかもしれません。
与えることを知らない人は、失うことも知らない。
失うことを知らないことは、それだけ聞けば平和な生き方のようにも聞こえます。
失う・失ったということを受け入れ、整理していくには、エネルギーを使うからです。それを経験しないというのは、楽なのかもしれません。
ですが、失うことを経験しない人生なんてないですよね。
それらの経験からも心を守り、支え合って、豊かに生きていくために人はいろいろな人と共に生きていくのだと思います。
パランパルミルを私が初めて知ったときに、素敵だなと思ったのは、この様々な経験を共有し、関係性を保ち、深め、子どもたちの人生を豊かにしていく一助になっているというところでした。
カトリーヌ・オンジョレがコンセプトとして『意味のある絆』を掲げている点にも象徴されますが『意味がある』というのは一緒にいて楽しいとか、自分を嬉しい感情にしてくれるとか、そういうことだけじゃないんですよね。
NPO法人 抱樸(ほうぼく)さんが仰られている『絆(きずな)は傷(きず)を含む』も本当にその通りと感じます。
フランスでの視察でも、さまざまな絆、さまざまな傷に出会うのだろうと思います。
その中で、私たちなりの「与え方」も見つけられたらいいなと思います。
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