読むな!かさね秘蔵小説『仮想世界の偶像論』
皆さんこんにちは。VRCに入れなくなったことにより本当に一般VRChatterの肩書すら失ってしまった、ただの一般人ことかさねです。
本日のnoteは特別編。かさねが先日書いたはいいものの、公開する場所を失ってしまった短編小説『仮想世界の偶像論』を公開します。
フォルダの奥底に沈めておくのも可哀そうだな……ぐらいの気持ちで公開してるので、暇で暇で死にそうなときにでも読んでください。
最初に言っておきますが、かさねは自分の小説を人に見られることに未だ凄まじい抵抗があります。それはそれはもう、感想を語れようものなら気を失いそうなぐらいに。
なのでこのnoteに関して一切のコメント、感想を述べることを禁じます。お願いだから何も喋るな!
以下本編
「本日のスペシャルゲストは、大人気アイドルの鳳ナツメさん!今回は最新曲『moon roar』をパフォーマンスしていただきます!」
一面に広がるサイリウムの明かり。ファンも、そうでない人も。皆一様に手を振り、声を上げ、目を輝かせる。
イントロのギターが鼓膜を揺らし始め、右足でステップを刻んでいく。レッスン室で幾度となく数えてきた数拍。完璧なタイミングでターンを決め、唸るように声をマイクに叩き込む。
ここまで昇り詰めた人間にしか見れない景色。
ナツメが何よりも愛するそれは、突如泡のように消えていった。
「ちっ……クソくだらねぇ夢だな。」
午前六時。百八十センチを超える大柄な体をゆっくりと起こし、ナツメは枕元に置いてあった水を勢いよく飲み干す。
習慣が抜けきらない。仕事に備えて早朝に起きるのも、スポンサーに配慮してペットボトルのラベルを剝がしておくのも。全部、もう不必要な習慣だ。
『鳳ナツメさん突然の引退から一週間。本日は弁護士の田井中さんをお招きして、鳳さんの訴訟問題に迫ります。』
いつだったか、連絡先を渡してきた女性アナウンサーに画面越しで名前を呼ばれ、ナツメの眉間に皺が寄る。
鳳ナツメ。元、トップアイドル。若い女性を中心に断トツの人気を誇っていた男性ソロアイドルは、ある日一夜にして芸能界から姿を消した。
去年の全国ツアーぶりに飾った新聞の一面の見出しは、
『鳳ナツメ 女性ファンに暴行』。
床に転がったあの日の新聞を軽く蹴り飛ばし、ナツメは身支度を整えていく。無精ひげは片付けるが、セットやメイクは無視でいいだろう。
今日は、ケリをつける日だ。
港区赤坂。住所を告げただけで田舎娘の一人ぐらいは落とせそうな、真新しいビル。その非常階段を登り、六階。
かつての勤務先であるその場所の扉を開き、ナツメは右手に持った菓子折りを覗かせる。
「リリィ、いるか。」
「社長と呼んで欲しいものだねぇ。それにナツメ君、今日は謝罪に来たんだろう?相応の礼儀を払うべきなんじゃないかな。」
「四十過ぎの男の癖して、ふざけた名前を使ってるのはお前だろうが。」
不服の込もった声を聴き、リリィはいつもの高らかな笑い声を狭い部屋に響かせる。
「で、この事務所の惨状はなんだ。ダンボールだらけでろくに物がねぇ。随分いい家具が山ほど置いてあっただろ。」
「全部売ったのだよ。誰かさんのせいで事務所に大量の違約金請求が来てねぇ。全く、コマーシャルの仕事はハイリスクハイリターンさ。」
「それは……悪かった。」
「いいさ。証明こそ出来なかったが、ナツメ君の無実は信じている。君はただ、手を振り払っただけだ。」
週刊誌のページをパラパラとめくりつつ、リリィが疲れ果てたようにして椅子に体を落とす。
「あの事件は誰も悪くない。まぁ、オフのアイドルに声をかけて勝手に握手した挙句、振り払われたら暴行だなんだと喚き始めるあの女は少し悪いかもしれないが……トップアイドルが女性恐怖症だなんて思っていなかっただろうからねぇ。」
そう言ってリリィが週刊誌をナツメの顔面に投げつけ、そこに映る一人の女性の姿を見た途端、腰が抜けた。
辛そうな顔でインタビューに答えるこの女自体に恨みがあるわけではない。ただ、日本人口の半数を占めるその性別が、恐ろしいだけだ。
ナツメは蕁麻疹の浮かんだ白い肌を軽くさすりつつ、話を元に戻す。
「で、いくら払えばいい。映画やドラマも控えてたんだ。家具を売り払っただけじゃ取り返せない金額だろ。」
「一千万だ。」
その程度?という言葉が喉から零れそうになりながら、ナツメはただ口を開ける。
「来ている請求が総額五億円。事務所側で負担した分とナツメ君の給与口座から勝手に引き落とした分で四億。」
「なっ、金の管理を任せると言った覚えはあるが、何も言わずに回収するなよ。というか四億?計算はどうなってるんだ。」
「話は最後まで聞きたまえよ。残り一億は正直用意できそうになかったんだが、支払いにはかなり猶予があってね。そこで、一千万かけて私は新たな事業を準備したんだ。一億は、それで稼ぎ出す。」
ペラペラと適当を並べる赤髪の怪しい男から、鳳ナツメという伝説の立役者たるカリスマ経営者へと姿を変え、リリィが指をピンと立てる。
十六でアイドルになってから、七年。もう分かる、これは面倒ごとが始まる予兆だ。
「ナツメ君。もう一度、アイドルをやろう。」
「断る。」
今度は喉奥に戻せなかった。先ほど投げつけられた雑誌を自称カリスマ経営者の顔面に投げ返し、ナツメは踵を返す。
「まぁまぁ待ちたまえよナツメ君。安心してくれ、上手くいく算段はついてる。」
「ファン殴って大炎上。顔も、声も、日本中に知られ、日本中で叩かれてるこの俺にアイドルをやらせる算段がか!?」
「あぁその算段が、だよ。なんてったって、君が有名なのはこの現実世界でだけだからねぇ。」
相変わらずやけに筋肉質な体だ。細くともしっかりした腕で掴まれ、ナツメは事務所の床へ強制的に着座させられた。
文句を言う暇もなく、ナツメの頭には見慣れないゲーム機が装着されていく。
視界を埋め尽くす近未来的な都市風景と、そこを歩くケモ耳を生やした奇抜な髪色のキャラクター達。非現実的な光景は頭痛と共にナツメの脳を染め上げる。
「レッスンと仕事以外のコマンドがないナツメ君は知らないだろうが、近頃はVRSNSという物が流行っていてねぇ。中でもこの『オラクル』という世界は格別だ。高品質なアバターと音響。ここでなら、アイドルのライブだってできる。」
「……本気で言ってんのか。」
「勿論。君の為にとびきり可愛いアバターととびきり優秀なボイチェンソフトを用意済みだ。一緒に頑張ろうじゃないか、ナツメ君。君は今日から鳳ナツメじゃない、ただのナツメだ。」
声が良いと持て囃されて声優の仕事をしたこともあったが、今ナツメの耳に入ってきた自分の声はとてもそう聞こえなかった。
悪くはないが、あまりにも女性的。
顔にしてもそう。眼前に現れた鏡には金髪ショートの猫耳少女が映っており、アニメを見たことがないナツメの目からしても大層可愛らしい。
一千万かけて用意された顔と声。
アイドルの才能を見極める力は、元トップアイドルにだけ与えられている。
「あぁ……クソ!ふざけてんのかあの野郎!」
聞きなれた低い声を轟かせ、ナツメは借り物のゴーグルをソファへ叩きつける。
昨日に負けず劣らず、最悪の朝だ。
ボイスチェンジャーと3Dアバターを使い、最新鋭のメタバース空間『オラクル』で女性としてアイドルをやる。
ふざけた話だが、拒否権はない。
『アイドルとは輝き続けるだけの生き物。救えない弱みを抱えていても、そこがどんな世界であっても。目の前にステージがある限り、歌って踊り続ける。』
かつて憧れ、自分を見出してくれた赤髪のトップアイドルはそう言っていた。
そして自分は、そんな生き物になってしまったのだ。
マイクの代わりに重さ五百グラムの精密機械を拾い上げ、ナツメは仮想に踏み出していく。
「やぁ、ナツメ君!約束通り来てくれたんだねぇ!分かっていたよ、君は約束を守る男。いや、女の子だ。」
「お前...…リリィか?なんだその見た目。」
限界ギリギリのグラビアアイドルが身に纏う物より、ずっと布面積の少ない下着のような何か。はち切れそうな胸と尻をテカテカしたそれで隠した女の方から、リリィの声が聞こえてくる。
「これが僕の本質だよ。オラクルの中じゃ性別も容姿も関係ない。僕はここじゃこの姿で生きてる。あらゆる自分が肯定されるのがこの世界だからねぇ。」
「そりゃ理想的だな。で、俺は何をすればいい。今度は誰に好かれればいいんだ。」
聞きはしたものの、ターゲット層は明確だ。
仮想世界に入り浸るオタク達。現実世界で女に相手にされないからって、自分たちが可愛い女の子になり女同士、いや男同士で戯れている奴ら。
たった一晩調べただけだが、オラクルのメインユーザーがそういった層だということはナツメも理解している。
「基本的にはナツメ君の想像通りだよ。一つ想定外があるとすれば、今回君はソロじゃない。三人でユニットを組んでもらう。」
「ユニット?」
「あぁ、来たまえよ!僕の可愛いお姫様たち!」
リリィが大きな胸を揺らしながら手を叩き、二人のユニットメンバーが姿を現す。
一人は長い銀髪を一つにまとめた少女。もう一人は狼がモチーフなのだろうか、茶色く大きな耳と尻尾を揃えた長身の少女。この世界において、美少女であることは最早前提だ。
「こっちの銀髪がヤマダ君。こっちの狼娘がシノ君。勿論どっちも男だよ。」
「初めまして、ヤマダです。」
「ナツメだ、よろしく。やけに可愛い声だな。俺のボイチェンより性能いいんじゃないか。」
「彼のこれは地声だよ。僕がオラクルでスカウトした、野良のカワボ男子だ。」
凄まじく高いわけではないが、愛嬌があってほんわかとした小動物のような甘い声。
それが地声と聞き、ナツメの腰が抜ける。現実の肉体の動きをバーチャルへ完璧に反映する最新鋭のトラッカーとやらを渡されてはいるが、今日付けてこなくて正解だった。
「オラクルで一番モテるのは女性やボイチェンじゃなくカワボの男の子だとされてるからねぇ。高い報酬を積んで雇ったんだよ。初期投資一千万はその実、結構な割合がヤマダ君の報酬に注がれている。」
「本当に男なのか?あまりにも可愛らしすぎるだろ。」
「本当さ。僕も最初は相当疑ったがねぇ、彼のムスコの写真まで見たから間違いない。あー安心してくれ、ヤマダ君は二十歳の大学生。児童ポルノには該当しない。」
あまり聞きたくなかった話が耳に入り、視線をもう一人の狼娘に向ける。
「シノとか言ったか?こいつも女顔負けの可愛い声なのか。」
「いや。彼は俗に無言勢と呼ばれている子だよ。喋ることはないし歌えもしない。ユニットではダンサーを担当してもらう予定でね。ストリートダンスから社交ダンスまで踊れる天才パフォーマーなのさ。」
よろしくお願いします!とでも言っているのだろう。シノは手早く表情を変え、パタパタと身振り手振りをしながら頭を下げて来る。
手の振り方や腰の使い方は女の子そのものだし、少し動くたびに揺れる大きなモフモフの尻尾は誰の目から見ても愛おしいだろう。
だが、目指しているのはアイドルだ。
「喋れないアイドルなんていやしない。俺達は歌って踊る職業、片方が欠ければそれだけでもう失格だ。」
その言葉に怒りでも覚えたのだろうか。シノはドシドシと足を動かしながらこちらに近づき、これでもかというほどにナツメへ顔を近づけて来る。
オラクルはコントローラーを動かせば前に進める。その前提があった上で足をわざわざ足を動かすのだからどうやら相当怒らせたらしい。
一応謝罪でもしておこうか。ナツメがそう思って、頭を下げても頭突きにならない程度の距離を開けようとしたとき、シノという名前の横に表示されているマイクのマークがほのかに光る。
「わ、わた、わたし。しゃ、しゃ、しゃべれましゅ!」
たった一言。不意に放たれた言葉を聞き、場にいる人間の動きが止まる。
「もしかして……吃音か?」
「は、は、はい!な、なつ、ナツメさん。ずっずーーーーと前、前から、ファンでした!!!」
「そりゃありがたいが……。おい、リリィ。お前……嘘をつきやがったな。」
「嘘というか、僕も知らなかったねぇ。なんせ声を聞いたことがなかった。」
ナツメは再び腰を抜かしていた。喋れないだとかアイドル失格だとか批判した相手が、吃音という貶しようのない事情を抱えていたからではない。ただ、もどかしい喋り方をする眼前の少女が発した声が、紛れもなく女の子のそれだったからだ。
「無理だ!俺は女とは組めない、お前が一番わかってるだろ。女みたいな声の男と会って、女みたいな声を出す男になったから分かる。こいつは間違いなく女だ!」
「まぁ落ち着きたまえよ。オラクルの中じゃ性別は関係ないって言っただろう?これはいわゆるシュレディンガーのなんちゃらというやつだよ。シノ君と現実で会うまで、彼の性別は確定していない。シノ君はシノ君。そういうことにしておこう!」
自分が女としてアイドルをやるのはまだいい。だが女と組んでアイドルをやるなど到底無理。
リリィとの幾度目かになる大喧嘩の火蓋を切ろうとした時、世界は暗転した。
一体全体どうしたのか。バーチャルの世界というものに疎い頭で必死に考え始めた時、スマホの通知が鳴る。
『オラクルのサーバーに不具合が起きたらしいねぇ!まぁ所詮はインターネット、こういうこともある!明日も同じ時間に。いよいよレッスンを始めよう。ナツメ君にはもう一度あの景色を見てもらうよ!』
青や緑、赤に黄色。歌いながら揺らめき、色を変える細い光達。
逃げることは簡単だ。だが鳳ナツメは、あの景色に囚われている。
「三か月後のクリスマス。君達のユニット、『cosmos』のデビュー日だ。オラクル内最大のライブイベントのトリを確保してる。期待してるからねぇ。」
「コスモスの花言葉って……調和と、乙女の純真、でしたっけ。」
「流石ヤマダ君!可愛いらしい知識を蓄えてるねぇ!」
カワボの男と吃音の女と女性恐怖症。こんなメンバーを捕まえておいて、なんて皮肉の利いたユニット名だ。
クソ野郎。
ミュートにしたマイクでその声は防がれ、ナツメはただ正面の狼から目をそらす。
あれから数日。ナツメは相変わらず、逃れられていない。
元より所属タレントはナツメだけ。そのナツメの仕事がなくなったのもあって暇で仕方ないのだろう。
リリィは毎日朝から晩まであの卑猥な姿のまま、三人の新人アイドルにレッスンをしている。
基本的なレッスンは三つ。
ダンス、歌、トーク。
ダンスでいえば、シノはやはりずば抜けている。アイドルダンス、中でもナツメの曲は完璧だった。デビュー当初から七年間、ずっと鳳ナツメのファンをやっている賜物だろう。リリィと二人、ずいぶん昔にゲスト出演した番組の話で盛り上がっていたが、勿論会話には参加していない。ナツメはただ、目を細めて見ていただけだ。
歌の話であれば、ヤマダに軍配が上がるだろうか。シノは吃音。吃音は歌になるとある程度声が出るという通説もあれど、彼女は単純に音痴だった。
ナツメもナツメで慣れないボイチェンに悩まされている。話すうえでは問題なくとも、ボイチェンが利きやすい声を維持したまま音を割らずに完璧な音程で歌う、という行為は凄まじく難しい。カラオケレベルならともかく、テンポが速く高音の多い女性アイドルの曲はボイチェンとの相性が最悪に近い。
これだけだとナツメがどうしようもない役立たずに思えるが、腐ってもトップアイドル。トークにおいては無比の力を誇った。いや、寧ろこれに関してはナツメが働くしかない。シノはあのざま、ヤマダも所詮一般人で元来大人しい性格のオタク大学生。アニメの話をさせればいくらか饒舌だが、小粋なジョークとは縁遠い。
詰まるところ、新人アイドルグループ『cosmos』はとてもステージに立てる状態ではない。例え三か月の猶予があろうと、だ。
「さてデビューライブの話をしたところで、楽曲の話に入ろうか。君達にオリジナル曲を用意した。」
不和は人間にとって最大のストレスだ。可愛い顔面の皮を被ったまま、ナツメは親しみ深いカリスマ経営者を睨みつける。
「仲良しこよしのアイドルソング、ってのは無理だぞ。俺達は凸凹トリオと茶化せる段階にすらない。」
「分かっているともよ。用意したのはミュージカル調の楽曲。様々な壁に阻まれながらも恋に落ちた美しい少女二人が、魔女の力を借りて愛を育む。そんなストーリーを四分で表現したのさ。これなら、君達にぴったりだろう?」
相変わらずプロデュース力の塊のような男だ。
ナツメとシノが相容れないことを受け入れた上で、無理なく二と一の構成を作る。あくまで主役は少女二人だから、魔女の位置に立つシノが歌わなくても違和感はない。まして配役は魔女だ。魔法をかけるとかなんとか理由をつけて、華やかに踊るシーンを作れば無意味な第三者になることもない。
そして、勿論リリィはそれだけではない。
「で、いい加減ライブに向けた一番の問題を解決しようかねぇ。君達、今日はレッスン中止だ。今から三人で話し合って、ライブに向けた衣装を決めてくれたまえよ。」
「衣装?俺はこのアバターがどうやって出来てるかもしらないんだが。」
「大丈夫。ヤマダ君は立派なオラクル民だからね、色々と教えてくれるよ。」
それだけ言い残し、リリィが仮想のレッスン場を去っていく。
残される三人。与えられた支持は単に服を作れ、ということではない。
要するに、いい加減仲良くなれ。それだけだ。
「ど、どういう感じにしますか?二人が使ってるアバターなら、割とどんな衣装でも使えると思いますけど……。組み合わせや実装も僕がやりますし。」
「基本的には曲の通りでいいだろ。出来る限り可愛らしくて統一感のある女性アバター二人と、魔女感のある衣装。シノの衣装は出来る限り袖を長くして、踊った時に映えるようにしたいな。」
細かいデザインまでは知らないが、衣装のテーマを決めたことぐらいはある。
オラクル内に存在する、空間上に書き込める便利な3Dペン。ナツメはそれを手に取ってスラスラとデザイン画を描き、横でシノは目を輝かせていた。
「この通り、こいつも気に入ってくれたらしい。方針としてはこれでいいだろ。話し合いはこれで終わりとして……。どうする、皆で仲良く大富豪でもするか?」
「大富豪?どうして急に?」
「気づいてないのか?リリィは俺達にもっと仲良くなれって言ってんだよ。」
ある種の諦めを感じながら、ナツメはゆっくりと腰を落とす。
「はっきり言っておくが、俺がシノと本当の意味で仲良くなるのは無理だ。俺はもう十年以上女性恐怖症をやってる。たとえ俺含めあらゆる人が美少女になっていたとしても、中身が女だと分かった以上どうしようもない。」
改めて断言したことで、視界の端にいるシノが分かりやすくたじろぐ。シノのトラッカーはナツメが持つそれよりもずっと高性能。その事実はこれまでのダンスレッスンで散々実感している。
「そもそも……本当に女性恐怖症なんですか?あれだけの人気アイドルだった人が女性恐怖症なんて未だに信じられないんですけど。」
「それが理由で大炎上して引退に至ったんだ。疑いようはないだろ。」
「聞いていいのか分からないですけど……きっかけは?」
「ただただ俺がイケメンだったから。それだけだ。」
あまりにも堂々としたその発言に、眼前のヤマダは勿論、ナツメの大ファンであるはずのシノまでもが若干後ずさる。
傍から聞けば凄まじい自画自賛だが、純然たる事実だ。
生まれてから今に至るまで。鳳ナツメという人間はただただイケメンとして生活してきた。
綺麗な二重と澄み切った茶色い目。長い手足には確かな筋肉が満ち、ありとあらゆるパーツが端正と言う他ない。加えて、低くはっきりとしたイケボ。
芸能界に入る前も後も、ナツメは自分以上に男前な人間に出会ったことはない。
そう評価しているのは本人だけではなく、これまで出会った女性のほとんどがナツメに対して好意を示してきた。純粋でピュアな好意。手紙や贈り物程度なら煩わしくも真摯に受け入れ拒絶することが出来るが、世間にいる女性はそうまともではない。
贈り物の中に髪の毛や血液、盗聴器を仕込んだり、家族や親しい友達を脅迫するような手紙を送りつけて来たり。深くおぞましい愛を叩きつけられ、ナツメは完全に歪んでしまった。
「俺は見返りのない愛が嫌いなんだ。だからアイドルという道を選んだ。アイドルは残酷なまでに見返りを求めて来る。CD、ライブ、サイン会。ファンは愛を伝えるために金を払い、俺もそれに返す。俺が憧れたアイドルは恐ろしく現実的で商業主義的な存在だった。どっかの赤髪のようにな。」
これは残酷な自己開示だ。
仲良くなるためではない。ただナツメの女性恐怖症が改善しようのない要素であり、それを理解したうえで受け入れろ、という勧告。
例え見た目上であっても、和気あいあいとしていればそれで問題ない。アイドルというのはそもそもそういう職業だ。
ヤマダと違ってシノは察しがいいらしい。
そんなナツメの言外の意図を理解したのだろう。シノは静かに座り込み、何よりも分かりやすい愛想笑いを浮かべる。
しかし、ヤマダの察しの悪さは格が違った。
「それ、良くないと思います!」
ただ声が可愛いというだけで連れてこられた純粋無垢な男子大学生。彼に甘やかな融和などという選択肢は存在しない。
「現実ならともかく。ここはオラクルですよ?皆可愛いんだから、シノさんだけ怖がるのは違いますよ!現実は現実、仮想は仮想。しっかり分けて考えないと!」
「そうは言っても……。」
「どうしても怖がるなら、僕のことも怖がってください。僕だってここじゃ可愛い女の子なんですから!」
オラクルならではの距離感だ。鼻と鼻が触れ合うほど。実際にぶつかることもないし、息遣いを感じることもない。だが思わず顔を覆いたくなるほど、魅力的で耽美。
誰よりもオラクルに適応し、誰よりもオラクルで輝く存在が、壁を壊していく。
「ヤマダ……お前が一番アイドルに向いてるよ。なんならちょっと怖いぐらいだ。」
「ふふっ。任せてくださいよ。cosmosが上手くいかないと、僕は報酬貰えないんですから。お金の為なら何でもやる。それが僕の信条なんです。」
ヤマダが平均に比べると少し小さな体をぴょこぴょこと動かし、ただ座り込むシノの脇に立つ。
「それにナツメさんは知ってるんですか?どれだけシノさんがナツメさんのこと好きか!」
「ある程度は聞いてる。お前らがその辺で話してるからな。」
「慎み深いシノさんが本人を前にして全て詳らかに話すわけないでしょう!いけシノォ!愛を語り尽くせ!」
遂には敬称まで消え、ヤマダが檄を飛ばす。それに促されて、いや単に怯えているだけだろうか。
シノは先ほどナツメが使っていたペンを手に取り、ゆっくりと自分の過去を語り始める。
一言一句を文字にして綴るのだ。とても大人しく待ちきれる時間ではない。
だが、ただヤマダの熱い視線がナツメに「黙って待て」と訴えて来る。
『始まりは小学生の時でした。吃音のせいで虐められていた私にとって、ステージで力強く歌うナツメさんは憧れで、ヒーローで、誰よりもアイドルでした。』
その筆跡を見ながら、ナツメの記憶に一枚の手紙が呼び起こされる。デビューした当初から、毎月のように送られてきていたファンレター。シノが書く丸みを帯びた文字は、まさしくそれと同一だ。
『私も皆と同じように話したい。そう思っていた私には、どれだけ弱みを抱えていても輝き続けろと言うナツメさんは対極で。この言うことを聞かないベロを受け入れるきっかけになったんです。』
少し画面がカクついてしまうほどの文字数。無言のままオラクルで生きている彼女が語るにはあまりにも多い。
そしてシノは初めて声を発したあの時と同じように、力強い足取りでナツメに近寄ってきた。
「す、す、しゅきでしゅ!!!い、いままでも、こ、こ、これからも!」
「お、おう……。」
「ナ、ナツメ、さんは、いつだって、わ、私のアイドルです!!!」
どれほど拒絶されても変わらない絶対的な愛。これまでに幾度となく投げつけられてきた過剰な愛情。シノのそれは、恐れるにはあまりにも澄み切っている。
芸能界は、いや現実は汚い世界だ。愛憎が渦めき、優れたものも劣ったものも、絶えず誹りを受ける。
オラクルという第二の世界に足を踏み入れてそう長くはないが、多分こちらの世界もそれは同じだろう。だが、少なくとも今目の前にいる二人はずっとずっと純粋だ。
「はぁ……。いいか、何度も言うが俺は女性恐怖症だ。基本的に俺には迂闊に近づくな。シノも……ヤマダもだ。」
シノに負けず劣らずの力強い足取りでナツメは立ち上がり、大きく体を捻る。
「俺の方針は変わらない。この世界で、もう一度輝くステージに立つ。もしお前らがその横に立とうというなら、まず俺の指示に従え。ヤマダァ!」
「は、はいっ!」
「お前はとにかく平均過ぎる!ダンスもそこそこ、トークも一般人。歌は割と上手いが、素の俺に比べたらまだまだだ!だからこそ更に平均を目指せ!お前がいつだって安定して平均を取れるようになれば、cosmosの平均はぶち上がる!何故なら俺もシノも特定分野においては超人級だからな!次、シノ!」
「……っ!」
「お前はただただダンスを磨け!お前のそれは才能だ。上手く話せなくてもいい!客の視線を一番奪えるのはお前のダンスだ!」
鳳ナツメ。元ソロのトップアイドル。
誰よりも努力し、誰よりも磨いたからこそ並ぶものがいなかった。
「いいか。俺達はアイドルユニット、『cosmos』だ。凸凹アイドルユニットなんて俺は認めない。全員で、完璧を目指すぞ。」
ここ数日でリリィに叩き込まれたような可愛らしい動き方ではない。ただ大きく、派手な、トップアイドルの動き。
それに導かれ、乙女達は輝き始める。
「なんだか……仲良くなったみたいだね君達は。」
翌日。いつも通りレッスンの時間になり、集合した三人を見ながらリリィが呟く。
「お前がそう指示したんだろうが。指示通り、衣装の案も考えたしこうしてチームとしてもまとまっておいたぞ。」
「衣装はともかく、仲良くなれなんて指示は一つもしていないんだけどねぇ。ナツメ君はあれだ、昔から勝手に人の意図を想像して読み取る癖がある。考えすぎというやつだよ。」
果たして正しいのはどちらなのか。そんな言い合いをするまでもなく、上機嫌なリリィが大きく手を広げる。
「まぁいいとも。とにかく今日は試したいことがあってね。」
「試したいこと?」
「ナツメ君のボイチェン、歌には不向きだと言っていただろう?だから今回のライブでは事前に歌を録音しておく形式にしようと思うんだ。まぁ俗に言う……口パクという奴だね。」
「なるほど。俺もそれには賛成だ。」
迷いもせず承諾したナツメに対し、両脇の二人から見るからに驚いたような視線が向けられる。
芸能界の闇を見たような気分なのだろうが、別にナツメが日頃から口パクをしていたわけではない。単に業界ではそういうこともあると理解しているだけ。
知っていることをいざ自分でやれ、と言われて断るような人間ではない。
「オラクルは音響面もしっかりしているからねぇ。ワールド側に音源を仕込んでおけば、特に問題もなくパフォーマンス出来るだろう。ヤマダ君はどうする?生歌でも構わないけれど。」
「生歌にするべきだ。シノは歌えないし、俺は口パク。多少違和感があっても、生歌が一人ぐらいいた方がアドリブが利く。」
業界経験者が手早く話を進め、一般人達が取り残されていく。
ユニットとしての基盤は作った。後は、作り上げるだけだ。
「ライブまであと三か月。ここからは地獄の道のりだ。頑張ってくれたまえよ?アイドル諸君。」
現実も仮想も変わらない。後はただ、アイドルをやるだけだ。
「cosmosさん、ご準備大丈夫ですかー!」
レッスンの時間ほど瞬く間に進むものはない。
時は流れて三か月。件のライブイベント当日になり、cosmosの三人は会場に集っていた。
「いいかお前ら。準備は万全だ。今日必要なのは覚悟だけ。ぶちかますぞ。」
「おー!って言いたいんですけど……ナツメさんステージ上ではあんなに可愛いのに裏だと低音でカッコいこと言うのいい加減に止めません?」
そうだそうだ!とでもいうようにシノにも指をさされ、ナツメが少したじろぐ。
ここ数か月でより一層仲良くなれたのはいいが、あまりに仲良くなりすぎた。何の遠慮もなく悪口まで言うようになり、先日は遂にオフ会まで果たしてしまった。
勿論シノとは会っていないが、現実であったヤマダは想像以上にヤマダだった。間違いなくその辺にいる男子大学生でありながら、あまりにも振る舞いや声色が可愛らしい。可愛いアバターを身にまとっていた時の方が違和感がなかったぐらいだ。
現実と違ってバーチャルのアイドルにメイクの時間はいらない。あの日話し合って決めた可愛い衣装を身に纏い、ただ待つだけ。
そこにいつものサキュバス姿をしたリリィが現れ、慌ただしく部屋中を駆け抜けていく。現実世界でもよくやっていた、本当に余裕がない時のリリィの動き方だ。
「あー君達、緊張の方は大丈夫なのかね?」
「お前こそ大丈夫か?随分と忙しそうだが。」
「今朝からオラクルが不調でねぇ〜。偶にサーバーが落ちたりしてるんだよ。」
その現象についてはナツメも把握している。仮にも本番の日。リリィからの「休め」という指示を無視して三人は自ずから集まって練習していたが、二、三度全員の接続が絶たれるタイミングがあった。
イベント側からも『接続が絶たれた場合、一旦待機。復帰次第順次再開』というお達しが出ている。
「ライブは本当に大丈夫なんだろうな。ステージがあれば踊れるが、大本が崩れれば俺達には何もできないぞ。」
「大丈夫大丈夫。それよりほら、もう少しで出番だからねぇ。しっかり喉の調子を整えておくんだよ!」
「だってさヤマダ。頑張れよ。」
三人いて生声で歌うのはヤマダだけ。その事実を改めて突き付けられ、不服そうにヤマダが口を尖らせる。
現実のライブイベントと違って、オラクル内だと音響はスピーカーからではなくワールド本体のギミックから流れているから、全体の進行状況が極めて分かりやすい。
鼓膜を揺らすヒップホップチューンは、香盤表における一個前。
いよいよ、cosmosの出番だ。
「よし円陣組むぞ。ヤマダ!シノ!」
「肩なんて組んじゃって、その距離感に僕らがいても大丈夫なんですか?女性恐怖症のトップアイドルさん。」
「うるせぇ、ライブの前のアイドルは基本的に無敵なんだよ。」
ナツメから勢いよく肩を組まれ、シノの大きな耳がぴょこんと動く。
ボイスチェンジャーのスイッチを入れ、準備は万全。違和感の消えた可愛らしい声が、熱を帯びていく。
「いいか、俺達はアイドルだ。例え可愛いアバターを使っていても、例え上手く話せなくても、例え純然たる物欲に踊らされていても。」
「……最後ちょっと悪意ないですか?」
「弱みも、恐れも、何もかも輝きに変えろ。その分だけ、ステージは俺達に輝きを見せてくれる。」
激情は要らない。ただ、冷静に輝きを求めろ。
それがナツメの流儀だ。
「cosmosさーん!本番でーす!」
合図に従い、三人が一斉にステージの真ん中へとテレポートするボタンを押す。
最初はカバー曲から。流行りのアイドルソングのイントロと共に目を開き、温もりを失う代わりに電子的な輝きを増したサイリウムの明かりが視界を包む。
これだ。これだけを追い求めて、鳳ナツメはアイドルに囚われたのだ。
レッスンの時間は一瞬だが、ライブの時間は永遠だ。BPMを無視して時が進み、少しのミスが記憶に深く刻まれる。
ヤマダの歌詞間違いも、シノのステップ間違いも。
大丈夫。二人のミスを輝きに変えるため、ナツメはここにいる。
「よし、いい調子だ。」
小さな声でシノに囁き、ナツメはウインクをキメる。
かつては大きく手を振り白い歯を見せながらやっていたそのキメポーズも、今となっては脇を閉じ口を噤んで行う可愛いポーズだ。
次の曲もカバー曲。
現実でアイドルをやっていた頃に幾度となく共演した女性トップアイドル。センター含むメンバーの八割に告白され、終いには相手事務所から理不尽に共演NGを突き付けられたが、こんな形で彼女達の曲を歌うことになろうとは。
感慨と共に足を動かした時、輝きが消える。
照明やサイリウムなんて話ではない。もっと大本だ。
「クソッ!これだから仮想世界は!」
暗闇を映し出すヘッドセットを外し、体を縛り付けるトラッカーはそのままにナツメはスマホを手に取る。
「おいリリィ!どうなってる!」
『例の接続不良!直ぐに復旧するはずだから、ずれたトラッカーの位置でも修正しておくんだねぇ!』
二つの怒号が飛び交っただけの短い電話。スマホを放り投げ、指示通りナツメは両手と両足、それに腰に付いたトラッカーに触れる。
こちらの準備は常に完璧だ。直ぐに立て直せる。
女性らしさを出すため少し内向きに付けられたこのトラッカー達にも、この三か月ですっかり慣れ親しんでいる。
静かに息をつき、数分。スマホが光り、内容を確認するまでもなくヘッドセットを装着する。
アイドルに全てを捧げた身だ、舞台が整ったこと以外を伝えるような友人は持ち合わせていない。
「お前ら!いるか!」
「ナツメさん!いるよ、シノちゃんも!」
再び立ち上がった仮想世界では、既に二人がステージの真ん中で立ち尽くしていた。
徐々にスタッフや客も世界に戻り、リリィが慌ただしく走っているのも見える。ライブの再開は近い、そう思って気合を入れ直そうとするナツメ達を、スタッフが手招きする。
呼ばれたら行かないわけにはいかないし、こうなってしまったら登場からやり直した方がいい。
ナツメを先頭にステージ脇に下がった三人を待ち受けていたのは、やけに静かな舞台裏と、想像の倍慌てふためいたリリィだった。
「まずい、これはまずいよ君達。」
「客なら何度でも暖める。任せとけ、俺はトップアイドルだぞ。」
「そういう次元じゃない。あらゆる音が出ないんだよ。」
誰かが歌っている時以外の時間、このライブ会場では小洒落たBGMが流れていたはずだ。だが、それすらも聞こえない。
「さっきの障害でオラクルの音響システムが壊れたらしくてねぇ。こうして話す分には問題なくても、音楽の類が一切流れない。」
「そ、そ、それって!」
「シノちゃんの想像通り。このままライブを続けるには、君達にアカペラでパフォーマンスをしてもらう必要がある。」
リリィの宣言を聞き、ヤマダが分かりやすく天を仰ぐ。無理もない。アカペラになったとき一番負担を強いられるのは彼だ。唯一の生声歌唱はこういうトラブルに備えての布陣である。
だが、ナツメの意見は根本から違っていた。
「アカペラは駄目だ。俺のボイチェンはまともに歌える状態にないし、ヤマダがソロをやるには実力が足りない。」
「じゃあ……一体どうする気かね?」
「予定していたカバー曲は飛ばそう。俺達のオリジナル曲、あれを一発ぶちかましてステージを終える。……あの曲なら、こっちの俺を出せる。」
少しの沈黙を挟み、仮想の可愛らしく甘ったるい声が消え、現実の低く勇ましい声が響く。
「美少女二人と魔女、っていう構成はそのまま。片方がカワボからイケボになるだけだ。元々ミュージカル調だから音がなくても違和感はないし、シノとヤマダの負担は増えない。」
「確かにオラクルじゃ男声の美少女アバターは珍しくない。かくいう私もそうだしねぇ。けど、やはりカワボの方が好かれはする。客が求めてるのは偶像だからねぇ。それに地声を晒せないからナツメ君はオラクルに来たんだろう?」
「細かい事情なんて知らねぇよ。俺はアイドルで、ステージ上で輝く義務がある。俺は鳳ナツメ、トップアイドルは客に文句を言わせない。それに、ここじゃ性別は関係ないって言ったのはお前だろうが。」
これはただの決意表明。誰の意見も求めていない。欲しいのはただ、仲間達の承諾だけだ。
トラッカーを外側に向け、柔らかくなった筋肉にハリを戻す。大股で歩くナツメの後ろには、二人も続いていた。
「まさかこっちのナツメさんとステージに立てるなんてね。シノさん大丈夫?」
「だ、だ、大丈夫です!!!ず、ずっと、この時間に憧れていたので。」
いつもよりはっきりとした喋り方のシノが立ち止まり、ヤマダとナツメだけがステージに歩いていく。
イントロはない。口火を切るのは、ナツメだ。
「あぁ……どうしてこんなにも愛おしいんだろうか。」
マイクも動いていないから、客に声が届いたかも分からない。届いていたとしても、誰も眼前に立つ美少女アバターの口から零れた声だとは思わないだろう。
だが、音がなくとも曲はもう始まっている。
「ずっと好きなのに……。どうして皆性別なんて気にするんだろう。」
ヤマダのアバターからヤマダの声がして、ようやく客もライブが再開したことを悟ったのだろう。
常に安定して平均を叩き出す。それだけを極めたヤマダの声色は、いつだって一定だ。
ヤマダがヤマダだったことで、さっきの声の主が誰かは皆に伝わった。なんだかんだ言って客は正直だ。会場に嫌悪や失望に近いどよめきが満ちていく。
それをかき消すのは、誰より愛に満ちた狼の仕事だ。
何度か見た覚悟の足取りでシノが現れ、二人に魔法をかけていく。
長い手足を振り回す、力強く男らしいダンス。
普段あれだけ可愛らしい動きをしておきながら、踊り始めると豹変するのはテレビ越しに見た憧れのせいだろうか。
客の視線がシノに引きつけられ、サイリウムが灯り始める。
流れは戻った。
仮想だろうと現実だろうと、鳳ナツメはトップアイドルだ。
「全く、やってくれたね~ナツメ君。」
記念すべきデビューライブを終え、翌日。久々の本気に悲鳴を上げる体にヘッドセットを載せ、ナツメ達三人はリリィの前でただ静かに正座していた。
結果として、ライブは大成功といえるだろう。鬼気迫るナツメのパフォーマンスは観客を虜にするには十分で、何事もなくイベントは終了。
そもそもの規模が小さいから新聞の一面!とはいかなかったが、SNSで話題の単語として『cosmos』と『鳳ナツメ』がランクインするぐらいには反響もあった。
だが、アイドルとしては失格ともいえる。
「君達は女性三人組アイドルなんだからねぇ。オラクルという曖昧な世界が全てを許してくれるわけじゃない。高い金を払って用意したボイチェンの甲斐もあって、あの瞬間までナツメ君を男性、それもあの鳳ナツメだと疑っていた客はいなかった。だが……今となってはあらゆる秘め事が白日の元だよ。」
「けど……ライブが成功したのはナツメさんのお陰ですよ!そもそもはオラクル側の接続生涯が原因だしこれで失敗だなんて!僕の報酬はどうなっちゃうんですか!?」
「それは勿論払うともさ。ヤマダ君への報酬を含めて……」
結局お前は金のことか。そんなナツメの文句をせき止めるかのように、もっと金のことしか考えていない男がいつか見たようにピンと一本指を立てる。
「またそれかよ。分かった、今度はどこでアイドルをやればいいんだ。現実か?仮想か?それとも閻魔大王の前で一踊りしてやろうか。金ならいくらでも稼いできてやる。」
「はっはっは!相変わらずアイドル大好きだねぇナツメ君は。だが、今回に限ってはもう逃げてもいいんだよ?」
「逃げる?」
「一億。今回のライブの評判を経て、cosmosに舞い込んできた仕事で得られる儲けの目算だ。今来ている仕事を全部片づければ、鳳ナツメ大炎上事件の違約金も完済できる。」
良くも悪くも。あのライブが話題になったことで、鳳ナツメがオラクルでアイドルをやっているという事実は世間に多少広がった。鼻の利く業界人のいくらかは、元トップアイドルの異質な再起に金の匂いを感じ取ったのだろう。
なんとも現金な奴らだが、お陰で諸々の問題は解決してしまったらしい。
「後は君達次第だ。元より違約金支払いの為に始めたアイドル活動だからねぇ。解散でもなんでも好きにすると良いよ。なんなら、ナツメ君に関してはリアルでアイドルに復帰してもらってもいい。」
「リアルで?鳳ナツメの再起が話題になったからといって、騒動が鎮火したわけじゃないだろ。」
「それが鎮火したみたいなんだよ。例え素行に問題があろうと、鳳ナツメは超一流のアイドル。今cosmosに仕事を依頼してきている業界人の見解は概ねそんな感じだ。」
偉そうに仁王立ちするリリィの艶やかな顔を見上げながら、ナツメは左右に視線を飛ばす。
cosmosもオラクルも、鳳ナツメの活躍の場としてははっきりいって物足りない。
ヤマダとシノのパフォーマンスはまだまだ拙いし、昨日のライブにしても客は二十人前後。
一流アーティストやダンサーと手を組み、数万人の観客を相手にしていた身からすれば、ままごと遊びに等しい。
だが、ナツメに迷いはなかった。
「俺はcosmosのナツメとして生きていく。」
ただ短く吐いたその言葉を聞き、ナツメに両脇の視線が集まる。
「約束したからな、完璧を目指すって。俺はこの三人。ヤマダとシノとオラクルの世界でもう一度トップアイドルになる。」
「な、ナツメ、ナツメさん!」
「仕方ないなぁ。よし、リリィさん!今後の報酬の話をしましょう!こうなったら僕就職なんてしたくないです!」
迂闊に近寄るな、その言葉を忘れたのだろうか。シノとヤマダが勢いよくナツメに抱き着き、三人は輝きに満ちた目でリリィを見つめる。
「まぁ、ナツメ君ならそういうと思っていたよ。どこに行っても、アイドルに囚われているねぇ。」
「俺だけじゃない。こいつらも、あの輝きに囚われている。」
オラクル。現実とは間違いなく別物の仮想世界。
思うままの姿で思うままに振舞えるその場所であっても、ナツメのやることは変わらない。
変わったことがあるとすれば、この曖昧な世界で出会った仲間が二人、横に並ぶようになったことだけだ。