「今の私ができるまで~自分が大嫌いから好きに変わるまでの道のり」(自己紹介)
海外旅行の旅記録を今までつらつらと書いてきましたが、今更ながら自己紹介を書いてない事に気づいたので書くことにしました(遅)
私が元々どんな人でどんなきっかけで海外好きになったのかを文字に起こしたいと思います。
私ってこんな人
私は愛知県一宮市出身です。
1987年生まれの射手座、A型。三姉妹の長女。
名古屋在住で一人暮らし。
趣味は海外旅行、パン屋巡り、推し活。
ストレングスファインダー:①調和性 ②目標志向 ③ポジティブ
④ 社交性 ⑤最上志向 ⑥達成欲 ⑦自我
おっちょこちょい、極度の方向音痴、大人数の前で緊張しがち、嫌いな食べ物はバナナ、ヨーグルト、レーズン、納豆、パクチー。
私の学生時代
地元の小学校、中学校に通い、高校は自宅から自転車で40分の進学校へ。
元々そんなに勉強ができるタイプではありませんでしたが、中学で勉強が得意な子と仲良くなり、それがきっかけで進学校に行くことができました。
今思うと、誰と時間を共有するか、つるみって大事。
その後は看護の専門学校に進みました。
私の将来の夢は看護師になること、これは小学生の時から全くブレずに変わっていませんでした。
本当は国公立の大学に行きたくて受験したのですが、センター試験でこけ、前期後期ともに散々な結果となる始末。後期試験当日はストレスと緊張で、行きの電車で気分が悪くなり途中下車してしまうほど。試験中もずっと腹痛で、結果は不合格。
進学先が滑り止めの専門学校に決まった後も体調不良が続き、高校の卒業旅行のディズニーに行けなかった….(泣)
私ってメンタル弱かったんだと自覚しています。これが私の最初の挫折でした。
実家からバス、JR、地下鉄2本乗り継いで名古屋市内の専門学校に通学。大学とは違い、授業のコマはぎっしりあって、休みも高校の夏休みと冬休みと同じくらい。
高校時代、ドラマのオレンジデイズを見ていたので、憧れていたキャンパスライフとはかけ離れていることに少しショックでした(泣)
そして病院や施設への実習もあったので、バイトはCDショップのみ。大人になってから思うことは、経験としていろんなジャンルのバイトを掛け持ちしてみたかったなと。
当時はMDにCDを焼く時代。CDショップでバイトして良かったことは、推しのアーティストのアルバムが発売される時に当時施策であったクジの景品の余りがもらえたこと。昔も今もファンなので、まだ家に大事にとってあります(笑)
専門学校3年生になり、夏頃に就職試験を受け、無事採用。
看護師は大学生と違って就活と言える就活がなく、書類選考と面接試験を受け、たいていの場合受かります。なので、私は就活の大変さを知りません。
そこからどんどん世間知らずになっていたと思います。専門職は世間から切り離されて、その世界の事にしか通じなくなります。どんどん視野が狭まって、考え方も狭まっていきます。それは後に気づく事になりました。
就活試験が終わると、本格的に看護師国家試験の勉強を始め、2月末に国試を受け、3月に合格発表の通知。
2009年、晴れて私は夢だった看護師になりました。
入学時はなんで私はここにいるんだろう?と納得いかずに専門学校に通い始めたものの、結果的にここで良かったなと思いました。
大学生より1年早く就職できたこと、学費も超格安で済んだこと。
私の家庭は決して裕福ではないので親孝行ができて良かったと思っています。
暗黒期
最初の就職先は学校の実習でよく行っていた名古屋市内にある某総合病院でした。私の学校からは40人ほど同じ病院に就職。当時の看護師の新卒採用が100人ほどだったので、約1/3以上が知り合いでした。
就職とともに実家を出て、病院近くの寮で一人暮らしを始めました。寮といっても完全なワンルームマンションタイプで、上下に学校の友達が住んでいたこともあり、全くホームシックにはなりませんでした。
私は自分の希望通り消化器内科病棟に配属されました。消化器はたくさんの臓器(食道〜大腸までの全ての消化器官)があり、眼科や耳鼻科などに比べて多くの知識や経験が学べると思ったからです。
どんな疾患の患者さんを看てきたかというと、逆流性食道炎、食道静脈瘤、胃潰瘍、胃ポリープ、膵炎、肝硬変、潰瘍性大腸炎、憩室炎、クローン病、大腸ポリープ、そして食道癌、胃癌、膵癌、肝臓癌、大腸癌など。
急性期の病院ではありましたが、ターミナル期の方も多く、看取りもたくさん経験してきました。多い時は一晩で3人看取った時もありました。
小学生の時からずっと憧れてきた看護師になったものの、理想と現実のギャップは大いにありました。
当時は2交代勤務で夜勤は16時間勤務。(夕方16時40分〜朝9時)
定時に出勤すればいいわけではなく、患者さんの情報収集をしないと全く仕事にならないので、日勤は少なくても30分前には、夜勤は1時間前には白衣に着替えて病棟に着いて、カルテからその日の自分の受け持ち患者の情報収集をします。
日勤の業務は主に検査出し、処置の準備や介助、清拭やシャワー浴の介助、入院の受け入れ、退院のお見送り、などバタバタでした。忙しい時は45分の昼休憩もまともに取れず、15分しか取れない時もありました。
子供の頃、食べることが遅く教室の隅に追いやられていた私が早食いになったのはまさに職業病と言えます(笑)
夜勤の業務は眠前の配薬、2時間ごとの巡視、翌日の退院患者の準備、朝の採血、食事の配膳などと、日勤に比べたらイベントもないので、患者さんがみんな寝てくれたら平和に終わります。しかし、そんなうまくはいきません(笑)
ひっきりなしに鳴るナースコールや離床センサー(認知症患者さんやせん妄患者さんがベッドから起き上がったり、床に降りた時に、転倒転落を予防するために鳴るセンサー)の対応、急変対応、患者さんの転倒や自己抜去(点滴ルートなどの管をを自分で抜く行為)、認知症患者さんやせん妄患者さんへの対応、患者さんのクレーム対応、看取り対応、急な入院。
毎日病棟を汗だくになって走り回る多忙な業務の中で、精神的に余裕がなくなっていきました。
・認知症だから仕方ないと頭で分かっていても、優しく接してあげられない自分
・看取りは悲しいはずなのに家族に寄り添うこともできずに、時間に追われてエンゼル処置(亡くなってからお見送りするまでに必要な処置)を淡々とこなす自分
・患者さんからありがとうと言われても、素直にしっかり受け取っていない自分
・やるべき事に追われて、ゆっくり患者さんや家族の話を聞いてあげられない自分
そんな自分が大嫌いでした。
罪悪感しかなくて、ありがとうと言われることが逆に辛かった。
幸い私は同期に恵まれていました。同期の3人とはみんなそれぞれ出身校が違いましたが、とても仲が良かったので、毎月同期会という名の夜ご飯に行って愚痴を言う場を作り、ストレス発散していました。
そんな同期も結婚や出産、病棟異動、病院を変わるなどして、5年目には私ともうひとりしかいませんでした。その最後の同期の1人も6年目にはいないことが決まっていました。
4年目にはそれが分かっていて、同期がいなかったら絶対頑張れないと確信していたので、私も退職することを決めました。
寿退社というような綺麗な辞める理由もなかったので、ワーホリに行くことにしました。
入社してから年末年始、GW、お盆休みがなく、年に1回だけ1週間程度の夏休みがあったので、私はその時だけ唯一現実逃避ができる海外旅行に行っていました。
そこから私の海外好きが始まったような気がします。
病院にいた5年間は病院旅行を含め、オーストラリア、フランス、バリ、スペイン、香港、マカオ、台湾に行きました。
私は思い立ったら即行動してしまうタイプなので、すぐにワーホリ先や語学学校、ホームステイ先を決めました。
母に話したところ、「ワーホリって何?」から始まり、本屋に行ってワーホリがどういうものか分かった後に電話がかかってきて、とても反対されました。私も当時はまだまだ精神的に子供だったので、「いや、行くから。」と聞く耳を持ちませんでした。
今まで私がやりたいと思うことをなにひとつとして一切否定しない親でした。だからこそ反対されたのがショックだったかもしれません。
母には昔から、勉強しなさい、良い点取りなさい、良い学校に行きなさい、良い会社に就職しなさい、など一度も言われたことがありません。
何とかなる!大丈夫!と楽観的な考え方をする親でもあり、心配性な親でもありました。
高校に合格した時は自家製のくす玉を作ってくれたり、大学受験に失敗した時は泣いてる私を見て、私の前では泣かないように平然を装っていてくれたり、夜勤でインシデント(ミス)を連発して夜勤明けにもう辞めたいと泣いて電話した時もただ黙って聞いてくれるような親でした。
ある時、親戚の法事で親族が集まった時のこと。
普段から自慢を言う親ではないのに、この子は〇〇病院で働いていると嬉しそうに自慢げに話しているのを見て、そんなに誇りに思っていたんだと思い、この時ばかりは病院を辞めることに引け目や申し訳なさを感じざるを得なかったです。
母は私が病院を辞めることを望んでいないんだと確信しました。
今でもその光景ははっきりと目に焼き付いています。
結果的に私はワーホリには行きませんでした。
あんなに頑なに人の話を聞かない私でしたが、ある人との出会いがきっかけで、初めて自分に向き合うことができました。
「私は同じ国に1年ずっと住みたいんじゃなくて、いろんな国へ行きたい。」
ワーホリに行くことで英語が話せるようになる、自分に自信がついて器を大きくできる、好きな海外にずっといられる、もしかしたら国際結婚なんてしちゃったり、などとキラキラした理由を無理矢理作っていました。
実際は病院を辞めたい、今の生活から一刻も早く抜け出したいとただの現実逃避にしかすぎませんでした。
ワーホリから帰ってきたら、きっと同じようにどこかの病院に就職して、同じように愚痴を吐く日々だということも容易に想像できました。それが分かった時にすごくゾッとしたのを覚えています。
ワーホリ行きは断念したものの、病院は退職しました。
先輩後輩にも恵まれ、辛いことの方が圧倒的に多かったですが、プライベートでは先輩にコンパに連れていってもらったり、先輩後輩関係なく一緒に旅行に行ったり、夜勤明けで同期と長島のプールで遊んだり、思い返せば楽しい思い出もたくさんたくさんありました。
必死になって働いた5年間は私の一生の財産です。
転換期
退職してからは派遣ナースとして、老人保健施設2ヶ所、デイケア1ヶ所で働きました。病院で働いていると病院の働き方しか分かりません。看護師っていろんな働き方があるなと病院を出たことで初めて気づきました。
老健やデイケアは病院と在宅の仲介場所。
病院で当たり前にあった機械や処置物品もなく、コストの面で使い捨てできない衛生材料もある。病院ってとても恵まれた環境だったんだと、辞めて初めて気付けました。物品も少ないがゆえに、病院なら助かったかもしれない命を助けてあげられなかったこともありました。その時は何もできないもどかしさ、歯痒さで、ただただ介護士さんと一緒に泣きました。
看護師以外に、勉強し始めたこともあります。
予防医学というジャンルです。
病院にいながらずっと思っていたこと。
薬はただの対処療法、根本治療にはならないということ。
最初は歩いて入院してきた患者さんが無事退院したと思ったら、今度は車椅子で再入院。次はストレッチャーで、、、。そして寝たきりになっていく。消化器内科病棟ということで、たくさんのがん患者さんを看てきて、病気になったら本人だけが大変なわけではありません。家族の生活をも巻き込んでしまうということを一番近くで見てきました。
病気になる前にできることはないだろうか?
病気になる前にきっと何らかの症状があるはず。
もし事前に症状を改善して、病気になる予防ができたら?
という事で、栄養学やサプリメントの勉強をし、資格も取って、今はインナーケアのカウンセリングのお仕事もしています。
私が関わることで目の前の人が元気になっていくのを見れるのがとても嬉しいです。昔はありがとうという言葉をかけられても全く受け止められなかった自分が、今ではそう言ってもらえて本当によかった!と心から思える自分になれました。
自分を好きに
派遣ナースを2年間続けたあと、今は婦人科クリニックに転職しています。
外来経験は初めてでしたが、正直に言うとやりがいはありません。
ですが、自分の時間を持てるようになりました。
仕事選びに何を優先するか?
これは人それぞれだと思いますが、私はプライベートの時間を持つことでした。
人生一度きり。死ぬ時にあれもこれもやれなかった、ではなく、あれもこれもできた、人生全うした、と思って死にたい。後悔するのは絶対に嫌。
今の私は仕事もプライベートも充実して過ごせています。
年に2〜3回大好きな海外旅行に行くようなライフスタイルを送れるようになりました。
病院時代に行っていた海外旅行は常に終わりの日が頭にちらつき、帰国日前日になると帰りたくない病を発病していました。ですが今は海外旅行を思う存分全力で楽しむ事ができています。
海外旅行中に感じたワクワクやモチベーションを日本にそのまま持ち帰り、仕事頑張ろう!英語の勉強頑張ろう!と毎日のエネルギー源に変えることができています。
病院を辞めることを残念がっていた母も、「あんたはいつも楽しそうだね。いろんなことに挑戦して本当にすごいわ。」と言ってくれています。
夜勤明けでよく泣いてた私と人生を楽しんでいる私を比べたら、きっと病院を辞めて良かったねと思ってくれているに違いありません。
昔は自分のことが大嫌いでしたが、今は少しずつですが自分のことを好きになれるようになってきました。
私の今後の夢
「行きたい時に行きたい場所へいつでもふらっと行ける自分になること。」
これが私のなりたい自分像です。
そして、もうひとつやりたい事として、、、
それは私の周りの人に海外の魅力を伝え、海外に行く人を増やすこと。
日本人のパスポート保有率を知っていますか?
たったの17%です。日本はたくさんの国に渡航できる優秀なパスポートを持っているのに関わらず、これだけにおさまっているのが残念です。
海外旅行はハードル高いと思っている人がほとんどだと思いますが、実際そんなこともありません。それは単に海外のことを知らないだけ。
だから私は自分のSNSを通して、海外の魅力をみんなに伝えていきたい!
インスタは旅アカウントに切り替え、旅の発信をしています。
そして本格的にインスタ発信するようになってから、旅に関わる仕事をしたい!と思うようになりました。
そして、今年8月末にSHElikesに入会し、ライティングをメインに勉強しています。noteもマイペースですが旅の記録の執筆をしています。
今までに私が行った国は20ヶ国50都市。
来年はウズベキスタン、トルコに行く計画を立てています。
そして2025年春にユーレイルパスを使って、約2ヶ月間ヨーロッパ15ヶ国ほどを周遊したいと考えています。
時間や場所に縛られないライフスタイルを目指して、これからも誰かの役に立つような旅の発信をしていきます。
ここまで長文を読んでいただき、本当にありがとうございました。
私の想いに共感していただけたら、フォローしていただけるととても嬉しいです。
こんな私ですがこれからもどうぞよろしくお願いします。