わかりあえないセカイでわかりあえたときのヨロコビ
新年最初の抱負みたいなものをきかれたり、書いたりするのが実はちょっと苦手だったりする。
抱負をいったあとに、「っていってもうまくいかないかもなあ」なんてことがちょっと頭をよぎったりするからかもしれない。
でも今年はちょっと違う。
有言実行というよりは、
言ったらできるかも!、な感じが強い。
というのも、韓国に引っ越してきて9年目。
引っ越してきた当初は、毎日韓国語のシャワーを浴びては頭痛になり、うちに帰ってきたとたんベットでちょっと横になる、みたいな状態だった。
けれど、買い物をし、子どもの幼稚園や習い事の先生と電話をし、保険や市役所への電話、生協のモイム(集まり)へ参加していくうちに、わからなかったことが、わかるようになってきた。
韓国人の友人が一言話す度に、携帯でNAVERを開いては「韓→日」辞典で調べてからではないと答えられなかったのが、携帯さえ持たずにも話せるようになる日がくるとは、当時の私はそんなこと全く想像もできなかった。
それから、「日本人」「外国人」というくくりの中で生きているというのは、海外で言語ができないと本当に厳しいということを肌で感じた。
すごくすごく親切にしてくれていた韓国人の友人にもあるとき「でもあゆみさんは日本人だから韓国語で市役所に問い合わせするのはちょっと無理よね~」みたいなことをしらっと言われたときには、怒りを通りこしてかなり落ちこんだ。韓国語を全く話せない日本人ママ友に同行して病院についていき、医師が話した内容を日本語に訳してあげることもしたことがあるっていうのに。
でも、言語の壁をある程度突破すると、文化や風習、慣習を理解する速度がはやくなり、現地の人と各段に仲良くなりやすくなる。
韓国の場合(どの国でもそうかもしれないけれど)、話のなかに、笑いをとれたらこっちのもん。掛け合い漫才のように話せたら、相手はことあるごとに私に声をかけてくれるようになる。(もちろん、まじめにしっかりはなせるようになるのがまずは最初だけれど。)
「育ってきた環境が違うから~好き嫌いは否めない~」とうたった歌手がいたけれど、国が違い、言語が違えばなおさら、好き嫌いは否めないどころか、わかりあえないのは当然。
でもどこか私たちは期待する。「言わなくたって、わかってくれるだろう」と。
だから失望し、悲しみ、悩む。
でもあきらめずに、話し表現し続ければ、あるとき、いままであった「わからないの壁」が少しずつ低くなり、違う世界が見え始めてくる。
その喜びは必ず人を成長させる。
2021年は
わかりあえない世界(セカイ)でわかりあえたことの喜び(ヨロコビ)
を大切にして生きよう。
韓国での生活だけでなく、世界で起きている問題や、私が知らない世界に接したときにはこの言葉を思い出そうと思う。
(いや、これは、1年だけの抱負じゃなくて、今後一生のあいだの目標にもなるかもしれないな。)