歳時記エッセイ 「みかんの花」
甘夏の花が咲いている。
まん丸い白い蕾を見つけた時、とりわけ、今年、嬉しかったのは、庭のその木が、一度は枯れかけていたからだ。
立春を過ぎて、木の芽時に剪定をしたからか、枝の一部が目に見えて痛み、枯れたかに思われた木が、翌年の春になり、芽を吹いたことは、春の部「清明」で書いた。
「もう枯れているかもしれない」と言われた時は、ひどく落ち込んだし、後悔と罪悪感すら覚えた。
母が大事にしていたものだからというのもあるし、そもそも庭の手入れができていないことも日頃から気掛かりで、できない自分を責める気持ちがあったからだ。
さらに、後から思えば、もう一つ、あの歌のことが頭にあったのだ。
子供の頃、我が家では、童謡や唱歌に親しんでいた。
レコードはもちろん、歌詞集もあった。
その本を開いて、母がよく歌ってくれたものだ。
確か、二分冊で、どちらも何度も開き、表紙は擦れ、綴じ目の糸が見えるほど使い込まれていた。
母は、折に触れ、「すこーし、心豊かに生きてほしい」と言っていた。
自分自身も、音楽が好きだったのだろう。
情操教育というような大層なことを考えていたわけでもないと思う。
けれど、それらの歌のメロディと詞の数々は、確かに、私の情緒を育てる基になった。
中でも、「みかんの花咲く丘」は、特に好きな歌の一つだった。
軽やかなメロディにのせて、穏やかな情景が語られる。
ただ、この素朴な歌詞は、ひたすら陽気なものではない。
思い出の丘にみかんの花が咲いていること。
そこから望む海に、汽笛を鳴らしながら船が通るのが見えること。
その景色は、いつか「母さん」と一緒に眺めたこと。
今は、一人で眺めていて、優しい「母さん」を思い出すこと。
子供心に、この人のお母さんはもういないんだなと、しんみり思ったものだった。
そして、自分が子供だったから、その歌の語り手も同じように感じ、お母さんは若くして亡くなったのだなと思っていた。
歳を重ね、母を見送った今では、この歌の語り手は、いい歳をした大人だなと思う。
母は、70歳になって間もなく、末期がんと診断され、わずか数ヶ月後に亡くなった。
その時、私は48歳のいい大人だったけれど、その衝撃は大きかった。
悲しみはもちろん、いろいろな後悔もあり、思うことは様々あったけれど、こなさなければならない仕事もあった。
諸々の後処理、空き家になった家の処分、現在の住まいの整理など、家に係る雑務をこなす中、ふと、庭に目をやる。
母が手入れしていた頃に比べれば、どう見ても荒れている。
その中、一際高く立つ甘夏の木は、大して世話をしなくても、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を生らせた。
5月ごろ、白い花が咲いているのを見ると、自然に、あの歌を口ずさんでいた。
「みかんの花が咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える青い海
お船が遠く霞んでる
いつか来た丘 母さんと
一緒に眺めた あの島よ
今日も一人で見ていると
優しい母さん 思われる」
母を偲ぶ気持ちは、幾つであっても変わらない。
むしろ、歳を重ねるほど、その思いは強くなるようだ。
そして、もう一つ、この歌には、父の思い出も重なるのだ。
父は、船員だった。
一年のうち、ほとんどは航海に出ていて、家にいることは少なかった。
何ヶ月か海外航路に出て、日本の港に寄港した時、家に帰ってくるという生活だった。
横浜に寄港した時、関西から母と弟と3人で出向き、父が乗務している船を訪ねたことがある。
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