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生まれて初めて「わたし」を覚えた日
生まれて初めて、自分の事を「わたし」と呼んだ日の感覚を思い出すことがある。
小学校前まで、自分の事を「〇〇ちゃん」と呼んでいたのを記憶している。
ある時、親から、「あなたは間もなく小学校に行き出すのだから、自分の事を『わたし』と呼ばなければ駄目よ」と教育される。
同時に、異様な違和感を感じた。
自分が自分というのは認識はあったが、「○○ちゃん」と自分を呼んでいる間は、他者的な感覚が強かった。愛用したリカちゃん人形と、それで遊ぶ「わたし」の関係に似ている。
当時、もっと哲学的思考が強ければ、「○○ちゃん」と「わたし」の存在を観察できる「ココの存在」は一体誰だ?何だ?と気づいたはずだが、そこまでは至らず。
自分を「わたし」と呼ぶとなると、この肉体を所有する、何かこう、大人になっていく為の非常に「馬鹿高いハードル」を越えねばならぬ気がした。
その違和感があるはずの、「芸名」を自分として生きて行きていく。いや生きて行かなければならない、だけでなく、信じ込む規則に従えというのだから、ACIM奇跡コースのKen Wapnickは、世界の病と呼ばずして何というかと笑って言う。
いわゆる、統合失調症の病名が言い渡された者だけが、「患者」ではなく、世界全体が、そうである言う。
慈悲の心とは、その理解から生まれるものではないか。
同時に、基本的に自分は頭がおかしい、と思えば自分に対しても慈悲の心がジワリジワリ湧いてくる。
本当の本当の我々は、何にも影響されない、慈悲そのもの、愛の炎そのもの、目に見えない母なる大地の様な、寛容さそのものではないのか。そうであるに違いない。
「人に親切であろう」とか「人を癒す」とか「人に優しく」というは余計なお世話。要らぬ事をするな、という事だ。
ACIM奇跡講座では、「態度を変える」事を目的としていない。
この「わたし」が悪夢を見ている、幻覚をみているのだと、自覚することに要点をおく。
恥ずかしいほどに、擽ったい程に、嬉しい気持ちが湧いては来ないか?
今この狂った世界に一番必要とされるのは、True Forgiveness /真の赦し以外に何があろう。