『いつも見てます』のひと言に苦しめられた

Instagramのストーリーでずっと発信をしていたんですが、反応が薄いし別になにかメリットを享受できてるわけでもないし、やめるか。
と思って「発信やめます」と公言して発信をやめたことがあるんですよね。

その数日後、とある方から『いつも見てます!発信楽しみにしてます♪』と連絡をいただきました。たしかに見てくれていたなと思って、発信を再開することにしたんです。

そしてあるとき、ふと思ったんです。
『いつも見てます』と言うけど、" いつも "ではないんだよな。
10回投稿したら1回か2回見てるぐらい。
それっていつもって言えるのか?と、どうしてもこの言葉が引っかかって、それでも本人は『いつも見てる』『楽しみにしてる』と言ってくれてるし、続けてみるか、と思ったりもして。

そして続けているうちに気づいたんですよね。
自分が他人の投稿をふとしたときに見て、「うわ、この考えステキだな」と思ったら思わずコメントして、そんなとき『いつも見てます』『楽しみにしてます』と言ってる自分がいるな、って。

けど、その人がストーリーを上げていたとして、分かってても見ないときもあったし、そもそもSNSを見ないこともあったりしたわけで。
それって別に「見たくない」と思ってるわけではなくて、見る余裕がなかったり、いまは気分じゃない、というときもあるんですよね。
とはいえ自分の中では「この人の投稿は自分が見たいときには必ず見るようにしてる」という気持ちはあって、だからこそ「いつも見てる」というのは嘘でも誇張表現でもなく、本当に思っていること。

だけど、相手はもしかしたら「いつもじゃないじゃん」と思っているのかもしれないな、と思ったことがあったんです。
そう考えたら、自分が言われた『いつも見てます』という言葉も、同じ気持ちで言われたのかもしれない、と思って。
さらに、発信をやめた直後に連絡をくださった方は当時、出版を目前に控えていたんです。
つまり、仕事の合間をぬって本の執筆活動をしながら、何百、何千人というお客様の相手をしながら、繋がっている人たちのSNSや連絡を対応して。
僕はそんな中の1人に過ぎないわけで。
しかも、取引先ではないし友達というわけでもない。
6年前にPayPayに加盟していただいた、" 過去 "のお客様なんですよね。
それなのにずっと気にかけてくださってて、なによりそんな多忙な中SNSの発信を追いかけ続けてもらえている。

これってめちゃくちゃ幸せなことなんじゃないか?と思ったんです。
僕にとってはSNSフォロワー300人程度の中の1人で、ストーリーを見てくれる数十人の中の1人でしかないけど、本人からすれば1000人(かどうかはわからないけど)の中の1人。
相手にとっては0.1%、つまり1%にも満たないほど小さな存在なわけです。

僕の好きな言葉に

事実は1つ、解釈は無数

というものがあります。
まさに、解釈によって自分を苦しめていたのだな、と。
言葉は人を勇気づけたり、元気にする作用がある反面、ときにそれが牙をむくこともある。
同じ言葉でも、捉え方(解釈)を変えれば如何様にも姿を変えるわけですね。

今回は

『何気ないリップサービスで言ったつもりでも、言ってくれたことが嬉しい』
『だけどふとしたとき、あの言葉は軽率に発した言葉なんだ、と感じて悲しくなることがある』

という発信をしている人を見て「たしかに、人が発した言葉に嬉しく感じたはずが後日、なぜか悲しくなることがあるな」と思い、1番記憶に新しい、印象的なエピソードをご紹介しました。

ここまで読んでくれたあなたは
同じような経験をしたことがありますか?

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