アオイエの論文を書けなかった話
1年がこんなにも濃いことはあっただろうか。メッシュワークゼミの発表をしたのが今年の2月だなんて、信じられない。
去年の9月、メッシュワークという会社の人類学ゼミに参加して、半年間アオイエ新代田のリビングで参与観察をしたお話はこちら。
メッシュワークでやりたかったこと
半年間のゼミの集大成としての展示は、今思えば「フィールドノートの公開」という趣だった。
それでも、来てくれた友人から「エッセイみたいだね」という感想をもらったとき、「いや、もっと意味がある」と思いたかったのかもしれない。エッセイも意味や価値は少なくともあるはずなんだけど、人類学ゼミという場所で半年間やってきたものは、何かエッセイ以上に意味があるものなはずだ、と思っていたのかもしれない。
「問いがない」というフィードバック
そうして、「もっと意味のあることが言えるのではないか」というモヤモヤを抱えていた頃に、Mode 2 Lab という奇妙な団体と出会い、「これだ!」と思って4期生として参加した。
そこは「卒論以上修論未満の知識生産を通して、知識生産能力を身につけること」を目的としており、約半年で1本の論文をアウトプットとして出すことが、ラボ参加者の目標となった。
けれど12月頭の締切までに、私は結局論文を書けなかった。 一回形にするところまではなんとかしたけど、それに対するフィードバックが「問いと結論がない」だった。論文じゃないやん。笑
結局そのまま、失速する形で締切を迎えることになった。
なぜ書けなかったのか。原因を挙げればキリがないけど、今思えば、アオイエへの愛着・執着の感情で参加したのだと思う。
そしてその態度のまま論文を書き切るのは難しかった。自分がアオイエの何を明らかにしたいのか考えたとき、愛着を持ってアオイエについて語りたかっただけで、実は明らかにしたいことは特にないことに気づいた。
あるいは、その事実を、論文を書く営みによって覆されることも怖かったのだと思う。実際、自分の仮説ーーシェアハウスという場所では共に暮らす中で住人の優しさに触れて感動し、受け取り、自分も優しくなれる場所なのだーーという仮説は書こうとする段階で、ただ私が信じたいものであり、全ての人に当てはまるわけではないと、薄々、いや最初から、気づいていた。
書こうとしていた人類学または社会学の領域で、そのことをどうやって明らかにするのか分からずじまいだったのは、そのことを間違っていると書く可能性すら認めたくないから、敢えて取り組まなかったのかもしれない。おそらく、その怖さを乗り越えるか、傍に置いてきちんと向き合った時に、自分の信じていることや、実際に暮らしていて確かだと思うことをそのまま論文に書き表せる可能性はあったとは思う。総じて、知識を生産する態度を、持てないままだったのだと思う。
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そもそも、論文を書くためにどのように努力すれば良いか、結局分からないまま終わってしまった。 何を言いたいのか考えるほど、読みたい本や論文が増えていくし、哲学という難解な方向へ向かってしまう。たぶん、知識生産ではなく、気になるものを読み続けることで私の欲求はしばらく満たされるのだと思う。
ただ、最初の講義で「市村さんは好奇心がでかいタイプだから、一旦あえて窮屈になるというのが、M2Lの主題の一つ。方向性を決めないと辿りつかない場所がある」と言われ、M2Lを窮屈になる時間として使おう、と参加したのに、結局どこにも辿り着けずに終わってしまった感があり、とても悔しい…。
メッシュワークゼミの時には、アオイエをほぼ"なま"の形で(=会話の記録とその解説という形で)表現することができた。けれど論文は、書き手の意図がないと成り立たない。つまり何が言いたいのか決めないといけない。
何が言いたいのかを決めるということは、何を言わないのかを決めるということでもある。捨てる、ということができなかった。その結果、何も言えなかった。
もしかしたら、論文よりも良い方法があるのかもしれない。でもどんな方法だとしても、選択するときはある。また逃げる自分でいたくないから、いつか必ず論文は書きたいと思う。人生のどこかのタイミングで、大学院に行きたい。
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参加する前と後で少しだけ変わったかなと思うのは、明らかに読む本の種類が変わったこと。 入門書ばかり買い漁っていたのが、専門書や原著をあたるようになった。
あと、シェアハウスの何を面白いと思っているのかを、以前は事象ベースでしか伝えられなかったけど、今はその事象を世の中にある言葉にある程度当てはめて?伝えられるようになった。
今は他者論、物語、ケアの倫理、責任、らへんのキーワードに興味があって、興味のある事象としては
といったことに興味があります、と言えるようになった。今後はその興味を本や論文にぶつけていくという時間を、引き続き持っていきたい所存。
1年のほうは
振り返ると文字数が大変なことになるので、割愛しますが、この1年で始めたことは、神社の朔日参り(ついたちまいり)と、トイドクと、fuzkueのギフトを自分のために買ったこと。どれも、とても好きな時間。
1ヶ月のうち数時間だけど、今振り返っても真っ先に思いつくような好きな時間を持てたことは、とても豊かだった。
自分の持つ色味は、深い色で、暗いとも捉えられるのだけど、やっぱり深く潜りたいたちで、でもその中は澄んでいて、むしろ潜るほど軽やかになっていくような。そんな自分でいたいと思う。