綴れ、文系
文系には文系の誇りがある。物語やドラマ、芸術、そして人間に触れる機会がたくさんある文系には、感情に訴えることは得意な人が多いはずだ。そして、いま何を考えているのか、どうしたいのか、自分自身の声を聴くことが上手な人も多いのではないだろうか。
ただ、ここのところ、その文系の良さが損なわれていると感じている。なぜか。それはSNSによる表現の陳腐化と、感情の希釈が原因だ。
ここまで読んで気づいた方も多いだろう。「この記事、言葉が固くてなんか面白くなさそうだなぁ」と。そう、今日は僕自身が抱えている不平不満のなかでも、かなりの大きさを誇るものを投げかけようとしている。だからこそ、すこし厳しい口調になってしまうかもしれない。それほど書き殴りたいことなのだ。大変、おこである。
読み進めるうちに、あまりに乱暴な物言いに気分が悪くなるかもしれないので、もし読み飛ばしたいのであれば、ページの一番下に要点だけをまとめておくので、そちらを読んでいただければと思う。
さて、「インスタ映え」という言葉を聞いたことがないひとはいないだろう。流行語大賞にも選定された言葉である。意味としては以下のようなものになる。
PC、スマートフォン向け写真共有SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のInstgramに投稿した写真や、その被写体などに対して見映えがする、おしゃれに見える、という意味で用いられる表現。
(コトバンクより引用)
さて、この10年ほどのうちに、SNSは世界各国あらゆる世代に浸透した。同時に、表現の幅は大きく広がった。自分の書いた文章(つぶやき)はもちろん、イラストや写真を投稿し、シェアが広がることで、世界中のあらゆる人に発信することができる。
ひととのつながりを築くことが得意な文系にとって、SNSは大きな活躍の舞台になる。そう考えたひとはたくさんいただろう。僕も「自分のたった一行程度の文章をひとに読ませる愉悦」に浸かりきっていた。リツイートやファボによって、承認欲求が満たされた。ここが文系が輝く世界になっていくのだ。そう思っていた。
しかし現実は甘くはなかった。SNSの進化とともに、スマートフォンの進化、ひいては小型カメラの進化が加速していく。だれもがプロと見違うまでの写真をワンタッチで撮影することができる世の中になった。百聞は一見に如かず、とでも言うがごとき、写真付きの投稿がタイムラインを埋め尽くすようになった。
もちろん、文章だけの投稿よりも共感を得ることはかんたんだ。「ハワイに行ってきました」という文章よりも、ビーチのサンセットを美しく撮影した写真があった方がわかりやすいに決まっている。ここまでならまだ我慢できた。
しかし、しかしである。最近、業界では「インスタ映えの次に来るムーヴメント」として、こんな言葉が生まれつつある。それが「ストーリー映え」だ。
Instagramに精通しているひとなら、Instagramの短期的動画投稿機能「ストーリー」を想起するかもしれないが、そうではない。写真だけでなく、その裏にある「物語」が鍵を握るというのだ。
ハワイで言えば、同じサンセットの写真だとしても、映画のロケ地に使われていた、とか、このロケーションのもと愛を誓い合った俳優と女優がいる、といったような物語もあわせて投稿するムーヴメントが巻き起こるとのことだ。
なおさら、文系が活躍できそうな話である、のだが、ここで思いも寄らない文化が足を引っ張る。「ハッシュタグ」である。もともとは「#」の後ろに、たとえば訪れたレストランの名前や地名を書き入れ、同じ場所に訪れたひと、同じ体験をしたひと、あるいは何かムーヴメントに参加しているひとを探しやすくなるような便利な機能である。Instagramの様式のひとつとして、「写真」「ひとことコメント」「#付きの地名や体験」の3点セットがある。
しかし、ここで日本は間違った使い方をはじめる(もしかしたら世界でも同じように使われているかもしれない)。ハッシュタグで自分の想いまでも綴るようになってしまったのだ。たとえば飲み会の写真とともに、こんな文章が投稿される。
#いつメン #安定の鳥貴 #あつしの顔 #にやけすぎ #彼女できたらしい #おめでとう #はよ別れろ #鳥皮頼みすぎ
そう、SNSの発達により、ひとは文章を綴ることをやめ、単語や短文をただ羅列するだけで体験を伝えるようになってしまったのだ。そのとき起こったおもしろいハプニングや嬉しい出来事も「#」によって表現するようになってしまったのだ。
せっかく、せっかく自身の体験や感情をおもしろおかしくこねくり回して表現し、世界中のひとに見てもらえる時代になったのに。ひとは、パチリ、と撮った一枚と単語の羅列で、表現を済ませてしまうのだ。そこには、美しき無駄や、少しの余白もなく、読後感のひとつも生まれない。表現の自由を求め闘った偉人たちに、頭が上がらない。この世の文系は、馬鹿ばかりだ。この程度の単語を並べることくらい、ロボットでもできるだろう。
このまま感情は死滅していくだろう。文系が、感情を軽視したとき。それは、文化の終わりだ。このままSNSが発達するにつれて、表現の場は広がる。しかしその場所を利用するのは、一部のアーティストやクリエイターだけになっていくだろう。
読み手も同じように、読む力を失っていくだろう。想像力も、失われるだろう。その読み手に押された「いいね」は、本当に「いい」と言えるだろうか。何の価値もないハートを集めて、あなたの承認欲求は満たされるのだろうか。
これが、僕が問題視している表現の陳腐化、そして感情の希釈である。表現の陳腐化はここまで語ったとおりだが、せっかく体験した素晴らしい出来事、そして得た感情を、SNSという溶媒に入れて薄めてしまうのは、非常に勿体ないことだと考えているのである。僕は、僕自身に誇りを持って生きていきたいと願っている。文系の誇りを、今こそ取り戻すのだ。ハッシュタグに負けるな、自分の想いは自分の言葉で、綴れ文系。
以下、忙しいひとのための要約