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初期化  | アートとコピー Vol.01

思い返すと、会場まで向かう自分がかわいくて仕方がない。卸したてのスニーカーを履いて新大阪駅へと向かい、新幹線では文庫本を開いては閉じ、開いては閉じた。わかりやすく、ワクワクしていた。手垢まみれの表現だが、何かが始まる予感がしていた。

しかし現実は厳しい。「何か」はもうとっくに始まっていたし、僕は既に乗り遅れていた。それに気づかず優雅に駅弁をほおばる自分は、やはり振り返るとかわいくて仕方がない。

アートとコピー3期。憧れていた講座がついに始まった。初回のテーマは、「仕事が集まるポートフォリオとは?」。事前に提出したポートフォリオは、正直うまくまとめたつもりだった。だが、蓋を開ければ、まるで自分の甘えを可視化するためにまとめたような出来だった。それに気づいたのは、講評が始まってすぐだった。

「ポートフォリオを企画したか」

この言葉で、顔がぶわっと赤くなったのを覚えている。ポートフォリオをつくれと言われて、ポートフォリオをつくった。まさしくポートフォリオ。100人が見たら100人が「ポートフォリオだね」と答える。ポートフォリオのイデアを目指してつくられた模倣品。それが自分のつくったポートフォリオだった。そこには背景も目的も意思も、もちろん企画もなかった。

読まれるためにどうするか。見られるためにどうするか。伝えるためにどうするか。本当にそれで「伝わる」のか。それを考えることだけが自分の仕事なのに、なぜできなかったのだろう。正しくは「なぜやらなかったのだろう」。その答えは、すぐに示された。

「〇〇ってこういうものでしょ?」
そう思った瞬間に失われる輝きがある

ここ数年、「こういうものでしょ」が自分の頭を支配していたことに気付いた。「悪い意味で慣れてくるころ」と言われたキャリア8年目、その甘えが凝縮されたポートフォリオだった。

こうすれば伝わるかもしれない。そもそも何を伝えるべきだろうか。なぜアートとコピーの応募にポートフォリオが必要なのか。なぜこのクライアントはお金を払って広告をつくらなければならないのか。その立ち返りをせずに「伝わるもの」をアウトプットできるほど、自分は達者なコピーライターだったのか?

キャリアも自惚れも、初期化する

憧れの講座に参加してようやく気付いた。これまでの無意味な自信や驕りが、「伝わる仕事」の邪魔をするなら、全部捨てないといけない。一からやり直す。凝り固まった30歳男性の背中のウラに埋まっていた初期化ボタンに、先の細いピン等のような鋭い刺激が突き刺さった。

停滞気味の自分に、手痛い一撃をありがとうございました。「コピーライターなんてこういうもんでしょ」で出来上がった自分はいったん捨てて、一から練り上げる8か月にします。求めていたものが、この先にあることだけはわかったので、ひたすら無意識に抗ってみます。

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