挨拶の不思議
日ごろ使う挨拶には、たまに意味不明なものがある。「ただいま」はわかる。「ただいま帰りました」の略だろう。「おはよう」もなんとなくわかる。一応、語源を引くと「お早くから、ご苦労様でございます」の略らしい。わかる。だから寝坊した人に「おそようございます」と挨拶する超高等ギャグも生まれた。
しかし、例えば「こんにちは」とか「さようなら」の語源はどうだろう。普通に使っている言葉だが、なぜこれが「出会いの挨拶」「別れの挨拶」に使われているのか、考えてもわからない。考えてもわからないことは調べればいい。なので調べた。
まず「こんにちは」は、漢字で書くと「今日は」になるらしい。この「今日は」が出会いの挨拶になった由来を調べる。どうやら「今日はいい天気ですね」「今日はご機嫌いかがですか」など、ほかの出会いの表現と結びついた形で用いられていたものが、上だけ一般化したようだ。
妙な話だと思った。違和感を覚える。単独でも出会いを表現できる「いい天気ですね」「ご機嫌いかがですか」が省略され、「今日は」というただの修飾語が、出会いの挨拶界で覇権を勝ち取るのはおかしくないか。
わかりやすく例えてみよう。ソースカツ丼、ソース焼きそばの「ソース」だけが残ったような感覚といえば伝わるだろうか。あくまでメインは「カツ丼」「焼きそば」であるにもかかわらず、「ソース」が共通しているからそれが覇権を取るみたいな。「今日の晩ごはん何?」と聞かれて「ソース」と答える人がいるだろうか。
ちょっと例えがうまくいかなかったが、違和感は伝わっただろうか。伝わったからといって何もないのだが。
まず「さようなら」は、漢字で書くと「左様なら」となるそうだ。つまり「それならば」という意味になる。本来は「さようならば、ごきげんよう」「さようならば、のちほどお会いしましょう」など、ほかの別れの表現と結びついた形で用いられていたものが、上だけ一般化したらしい。
妙な話だと思った。単独でも別れを表現できる「ごきげんよう」「のちほど」ではなく、「左様なら」というただの接続語が、別れの挨拶界で覇権を勝ち取るのはおかしくないか。
わかりやすく例えてみよう。カレーライスやハヤシライスの「ライス」だけが残ったような感覚といえば伝わるだろうか。あくまでメインは「カレー」「ハヤシ」であるにもかかわらず「ライス」が共通しているからそれが覇権を取るみたいな。「今日の晩ごはん何?」と聞かれて「ライス」と答える人がいるだろうか。
ちょっと例えがうまくいかなかったが、違和感は伝わっただろうか。伝わったからといって何もないのだが。
最後に「ありがとう」について。漢字は「有難う」と書く。有ることが難しい、つまりめったにない貴重な機会ということから、感謝の意を示す言葉として使われているそうだ。
さて、「めったにない」=「感謝」という公式について。この公式はいまいちピンと来ない。ハトの糞が頭に落ちることなんてめったにないが、だからといって感謝しようとは思えない。
しかし安心してほしい。こちらについては僕ではない人が例え話で解説してくれていた。ここまで僕の例え話はうまくいかなかったので、けっこう有名な人の例え話を引いてきた。
どうでしょう。ちなみに、この例え話はお釈迦様の説法から引用いたしました。
僕が言うのもなんですが、わかりにくい気がします。うまく例えられていない気がします。まったくピンと来ません。人にものを教えるときは、もっとわかりやすくて身近なもので例えるのがよいかと存じます。変な亀とか変な丸太、出さないでほしい。いやはや、これこそまさに、釈迦に説法といったところでしょうか。おあとがよろしいようで。