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娘の卒園式に呼ばれないパパ。「でも、これでいいのだ」
もうすぐ行われる次女の卒園式に、パパ(僕)は出ない。
そんな家庭は、僕らだけだという。
娘さんは、残念に思っているでしょうね――。
そう思われたかもしれない、アナタ。
違うんです……。
僕が欠席するのは、
仕事が忙しいから、でもなく
他に用事があるから、でもなく
病気を患っているから、でもなく
娘本人の"希望”なんです。
「パパじゃなくて、ネェネェ(お姉ちゃん)がいい」
次女がそう口にしたのは、
卒園式開催の1カ月くらい前のこと。
「卒園式は、パパとママで行っていい~?」
と聞くと、娘は首を横に振った。
あれ?と思った僕は、次の瞬間……
「パパじゃなくて、ネェネェ(長女)がいい」
「ネェネェに見てほしい」
という言葉を耳にしたのだった。
もちろん、ガッカリはした。
ただ一方で、「それもアリかもな~」とも思った。
次女だけでなく、長女も通っていた保育園。
朝の送りは僕が担当し、夜の迎えは妻の役目だった。
長女のころから数えると、10年近くは通っただろうか。
卒園式は、その最後を飾るイベントだけど、
次女との思い出はむしろ
卒園式に至るまでにたくさん詰まっている。
例えば、今朝も、彼女とは
自転車に2人乗りで登園した。
すっかり春めくなか、毎日通る公園では
鳥の鳴き声がたくさん聞こえてきた。
池では、あまり見慣れない大きな鳥が仁王立ち。
「見た、今の? すごい大きかったね」
「え、どこ? どこ?」
「ほら、あっち。あそこだよ」
「ほんとだね、キレイな鳥」
橋をわたるとき、カモを数えるのが日課となっている娘は
「イチ、ニー、サン、シー、ゴー、ロク、ナナ!!!」
「ナナワもいるよ~」
と、興奮気味に教えてくれた。
頬を切るように冷たかった風も、ずいぶんと暖かい。
顔を上げると、次女が4月から通う小学校も視界に入る。
「もうすぐ、お姉ちゃんとあそこ(小学校)に行くんだよ」
「え~、早起きはヤダよ」
そんなたわいもない会話のすべてを覚えているわけではない。
でも毎日、何かしらのやり取りがあって
僕と次女とで感情が行き交う。
(もちろん、お互いにネガティブな感情を抱く日もあった)
保育園に着いたら、
そこには必ず先生がいて、友達がいて……
でも、1日として同じ日はない。
「卒園式」のような特別感はないけれど、
小さな思い出たちは、もう十分すぎるほど積みあがっている。
だから、パパは卒園式に出なくてもいい――。
というほど、単純なものではないけれど、
あくまで主役は次女で、彼女が下した決断なのだから
変な説得をする必要はないのかなぁと思ったのだ。
もちろん、先生たちは困惑している。
それは申し訳ない……。
変な家族ですみません、という気持ちだ。
ただ、長女にとっても
母校(母園?)での卒園式に出る貴重な機会になる。
彼女が知っている先生もまだ何人か在園されているし、
元園児として、後輩たちを見送るのも特別なことだろう。
妻が若干、居心地の悪さを感じていそうだが、
我が家のオンナたちの絆の強さを示す機会と言えるかもしれない。
そんな風に考え始めると、
自分(パパ)が呼ばれない卒園式もまた、楽しめてくるのだ。
あのタモリさんは、故・赤塚不二夫さんの葬儀で次のような弔辞を読んだという。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
僕のいまの心境も、これに似ている。
卒園式に呼ばれないことは、何も罰ではない。
むしろ、行かないことがスペシャルな体験となるかもしれない。
だから、僕はこう思うのだ。
「これでいいのだ」
と。