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生活のものさしは変わっていく
最近私の周りは結婚ラッシュ。SNSを開くたびに、どの子かが彼と指輪と一緒に写真に写っている気がします。
そういうときに「二人で明るい家庭を築いてくださいね」ってよくあるメッセージですが、生活の最小単位が2人になるってわりとすごいことだな〜と思うんです。
私自身、生活についての考え方を短い期間にぐにゃぐにゃ変化させながらいまのパートナーとの2人暮らしになったので、振り返りながら記事にします。
いまこそ、一人ひとりに向き合って暮らしたいとか言ってる私ですが、二十歳前後の実家にいたころは家族に向き合うことなんてさらさらありませんでした。
親や兄弟のライフスタイル(とくに時間やお金の使い方)が、細かいことから大きなことまでとにかく許せず「早く大人になりたい!自分で稼いで誰にもイライラせず、自立して暮らしたい!」と心から思っていました。
いまふりかえるとたぶん、当時の私には愛情の不公平感みたいのがあって、それが原因で自立にこだわっていたのではと推測しています。思春期後半特有の、被害妄想?というか何というか…。(その後、家族とはじっくり話したり時間をかけたりして、おだやかな関係へ戻っています。)
なので社会人になって1人暮らしになった数年間は、さびしさを感じることはほとんどなく、とにかく最高だな~と思っていました。自由というより、自立できているというプライドがそう感じさせてたんだと思います。親よりも兄よりも、「私はちゃんと一人でやってる」っていう謎の自負が。
でも次第に、これってなんか人間的に変なプライドだな、と思うようになります。
親戚でもないのに何回も食品を送ってくれるバイト時代のパートさんや、季節ごとの絵葉書を送ってくれる海外の友達。私はお礼を言うだけなのに、いつもタダで元気づけてくれて、しかもそれを喜んでしている。
この人たちに私は、"人間は社会的動物である"じゃないけれど、世の中にはこんなにも頼るだけで保たれる関係があるんだって教えてもらった気がします。一人でなんでもするのが自立じゃないんだとやっと腑に落ちて、本当の意味で大人になれたのはこのころだった気がします。
なので、その後ひょんなことからパートナーと2人で暮らすことになりましたが、生活維持のための時間やお金を、数値的な意味合いだけでフェアするのはやめました。究極、家庭の中でお互いの関係性に納得できていたらこだわりすぎることでもないかな、と。
関係性に納得、と言うとちょっとわかりにくい表現ですが、なんというか、几帳面なことは几帳面な人がすればいいし、片方が仕事で忙しいときはもう片方が一時的に1.5人分がんばればいい。自分たち本体から切り離した数字(時間やお金)にこだわっていざこざするよりは、お互いの状況や特性からできることできないことをバランスするほうが無理がないと思うんです。
でもそうすると関係性は刻一刻と変わっていくから、何度もちゃんと話し合う必要がでてくる。そこはある種 手間のかかる作業なのですが、何回でも言いたいことを言い続けるタフさと、相手のそれを受け取るちょっとした余裕を日頃から意識していたらきっと大丈夫。自分が本当の意味で暮らしやすい生活をつくるためにも、向き合うことはやっぱり大事に思います。
いまの私は、仕事も、願っている暮らし方の実現も とにかく中途半端。これを書きながらもあと半年後には、違うことを言っているかもしれないし、生活の単位が減ったり増えたりするかもしれない。もしそうなったとしても、自分がしたいのはどんな生活?そのためにどんなことを話し合う?って素直に考える時間はちゃんととっていたいなあと思います。
今日のBGMは、awesome city clubの4月のマーチでした。