創り出さない時間があってこそ。
noteをはじめてすぐの頃、使い方ガイドを読む中で、記事を書く人は「クリエイター」と呼ばれると知りました。
クリエイティブ=創造的って イケてるお兄さんお姉さんにだけ許される称号と思っていたから、自分が1ミリでもその部類に入るなんて まずありえないと思っていました。
とは言ったものの、伝えたいことを書き始めるとすぐ夢中になって 錯覚が起きてきました。私の頭の中の世界をなるべく忠実に言葉にのせたくて、う~ん…と唸っているときは、たしかに何かを生み出しているような感覚が。
もしかしたらちょっと私、クリエイティブかも、と。
公開したら いいねもつけてもらえるし。
でも、そのちょっとした陶酔感(?)には同じく危うさも感じます。
そもそも私の記事はどんな人に受け取ってもらいたくて書いてるんだっけ?
ふだんの私って、こんなに派手な言葉使うんだっけ?
そうなってきたらこれはある種の合図なので、不特定多数とつながるアプリ(note,Twitter,Instagram)は閉じて、身近なつながりだけに目を向けます。
家族とのメール、仲良しな女友達とのLINE、ごくごく身内なやりとりを ちゃんとする。その中には「おばあちゃんの介護が…」とか「最近彼氏の態度が…」とか、「それは一般的にこうすればいいよ」みたいな、そんな情報の横流しみたいな返信じゃ 到底太刀打ちできない、ドロッとした現実があります。
傷つけないよう言葉選びにはもちろん気を使うし、解決策でなくてもその人が気持ちに余裕を持てるにはどう伝えるのがいいか、すごく頭を使う。
でもそんな地味でちっちゃなやり取りの中に、ほんものの私の芽が出てくると思うんです。なぜかというと、すぐそこで起きているめんどくさい課題のほうが、共感や違和感をザックリ私の気持ちに切り込んでくるから。
逆に言うと、そんな刺激を直に受けてでないと「あ~こんな気持ちを、彼女や彼に似た誰かに できる限り精一杯伝えたい」と本気で思えないし、発信し続けられない気がします。
だから何が言いたいかというと、私にとってクリエイティブは手段の一つにしておきたい、ということです。華やかな作品で私自身が評価されたいのではなくて、私が誰かに向き合った結果 放っておけない想いをここでは記事として置いておく。
noteをはじめて20日ほど経って、改めて付き合い方を見直したかったので、忘れないよう記事にしました。
ちなみに今日のBGMは、mouse on the keys / 最後の晩餐 でした。