ep.1 隣り合う爆弾
この前、高校時代の後輩とご飯を食べに行った。
彼女は、意気揚々と「今好きな人がいて〜」と言って、話をしてくれた。
すごく楽しそうに話してくれて、彼の話になると途端に表情豊かになるところがとても可愛いなと思った。
恋をして輝く人は、たくさんいる。というより、むしろそういう人の方が多くて、感心する。
私は、恋をし始めると疲れてしまう。それは、相手に何かを尽くしすぎて疲れるとかではなく、たとえば一人きりの時間に、頭の中で自分以外の誰かを想うことができないから疲れるのだ。
でも、恋に落ちた相手ということは、大切な人ということには変わりないだろうから、なんだかんだ想い続けていくんだろうけれど(それはもう惰性)、疲れを感じてしまうタイプの私に「恋」が生活の一部となる生活を続けろと言ったところで、そう長く続かないだろう。
今の私は、本当に恋がしたいのだろうか?
これからの私は、恋ができるのか?
凡ミスをしないように、「分かっていそうで分かってなかったこと」を書き連ねていく。
泣きたいのか、笑いたいのか
「寂しい」という感情と「恋」は正反対にあると思っている。
心や体に空いた穴を埋めるために誰かといるのであれば、それはただ寂しいという気持ちをどうにかしてもらいたい(どうにかしたい)という欲心。
恋は、楽しさで満たされたいというパワフルな願い。
今自分の中だけにある感情を誤魔化そうとすることと、これから他者と同じ感情を分かち合いたいという、このふたつの明確な差に気づかずに、人は複雑な恋をすることがある。
それは、「寂しさ」と「恋」があまりにもよく似ているからだろう。
穴を埋めてもらっているときは、「満たされてるなぁ」と感じ、それは寂しさから幸福へと表情を変えていく。
けれど寂しさが幸福の顔をするのは、あくまで一瞬の出来事。自分は何でそんなに寂しいのか、それがどこから来ているものなのか、人に埋めてもらう以外の方法が本当にないのか?
自分の心に向き合わずにいたら、寂しさは必ず再発する。
一方、恋は人の心に穴を作ることがある。
同じ感情を分かち合いたいと思っているだけなのに、それだけのことが難しくなることがある。ただの欲じゃないからこそ、たくさん苦しむ。
そのぶん、楽しいと思えることはたくさんあるだろう。(楽しいと思える時間の方が圧倒的に多いだろう)
書けばこんなにわかりやすい「寂しさ」と「恋」の違い、実際に生きているとまったく見分けられなくなることがある。
私が恋を「ハードル」と感じる理由のひとつとして、「寂しさ」と「恋」を履き違えているかどうか分からなくなることがあるからなのだろう。これは寂しいと思っているだけなのか、それとも恋なのか、自分でも分からなくて不安なんだ。
そうやって生きていくと、結局最後に選ぶのは「自分」なのだ。