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いっそふたりで しあわせに?

今日も彩花です。

11月出演ミュージカルのお稽古から帰ってきました。
本当は期間中、noteを沢山書きたかったのだけど、座組のみんなと話すのが楽しくて何もできなかった。
潮彩のチケット発売も近いということもあって、まだまだ発信したいことがあるのに。

ということで
間もなく始まる「はれのひ」に向けて

様々な価値観がある中で「お稽古場は世界で一番安心で安全な場所である」という考え方がある。
許される、から、トライできる。
パフォーマンスだけでない、心の宿る作品創りに欠かせない条件のひとつだと私は思う。

では、何をもって世界一安心安全な場所になり得るのか?

私たちが楽しく合宿している中、巷ではまた演劇界に悲しいニュースが飛び込んできた。
私は幸いなことに、例の話のような現場に出会ったことは、あまりない。
あまり、だから、全くないとは言わない。

演劇というものは、決まった容をもっていない。
人の数だけ「演劇」がある。
だから、何を信じてお稽古場に臨むかというのは、人それぞれだと思う。

「信じる」ということは、「盲目」になることではない。

今回の合宿を経て感じたことだ(合宿中に何かが起きた訳では無い)。
正直、演劇というのは、どこかあやうさを含んでいるものだと、私は思っている。
宗教的、とまでいくと言葉が強いかもしれないけど、自分が何を選んで信じるかによって、行動が変わってくる。
自分の信じる道を進むことは悪いことではない。
なりたい姿とか、目指したい作品像とか、あって当然だ。
だけど、何かを崇拝する程のめりこむ事は、それこそ事件に繋がる。
何も見えなくなって、お稽古場の中で偶像、あるいは虚像崇拝をし、起こる出来事の「異常さ」(お稽古場で起こる全てがそうだと言いたいわけではない)に気付けない程になってしまうと、そこから生まれる作品は、何の為に存在しているのだろうか。

私が世の中を穿った見方をしているからそう感じるのか。
私の見えている世界は、私が見たかったから見えているものなのだろうか。
実は私は私の意思で生きていなくて、何者かに操り人形みたく操作されてるとしたら。
私は私の人生の主人公ではなく、誰かのゲームの主人公だとしたら。
何故演劇という道を選んで、ここまで活動しているのだろうか。

話が脱線してしまったのだが、今回私は「潮彩」という自主企画を行う。
潮彩のお稽古場が、あたたかい海のように、安心できる場所になるように、私はどうしたらいいのだろう。

あまり多用してしまうと疑われるかもしれないけど、本当に参加してくれるみんなのことが大好きで。
10月1日からチケットが発売になるわけだけど、一緒に12月を過ごす約束をしてくれる貴方のことが大好きで。
大好きな人と、大好きなことをして、幸せになりたいだけなのだ。
私がお稽古場でできること、それは愛を伝えることだけなのかもしれない。
相手の価値観は、相手だけのものだ。
それを変えることは、私にはできない。
だったら、私はとにかく、目の前の人を、目の前の人として、愛するだけだ。

あきちゃんへの
はるちゃんへの
マキちゃんへの
奈穂さんへの
彩さんへの
愛実さんへの
萌恵さんへの
みくてへの
ぺーさんへの
ひろさんへの
べりーへの
千畝への
田村のきょんちゃんへの
あきさんへの
とくちゃんへの

そして、ご来場頂くおひとりおひとりへの

あいのかたちは、ぜんぶちがう。

それだけでいいのかも。
なんかごちゃごちゃ話してたけど。
甘えではなく、盲目にもならず、己は地に根差し、柔らかく、「信じる」ことが、空間に届けられたら、幸せに近付けるかもしれない。

みんなみんな、私も含めて、演劇が悲しいかたちになってしまうのは、そんなのは嫌だ。
こんなに大好きなものを否定するなんて、されるなんて、嫌だ。

私は私が愛したものを
愛するものへ
つなぐだけ、ただそれだけでいい


彩花

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沖村彩花
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