相手を理解できないことを理解するということ【「人間の土地へ」小松由佳】
著者の小松由佳さんとは、
フォトグラファー。1982年m秋田県生まれ、高校時代から登山に魅せられ、国内外の山に登る。2006年、世界第2位の高峰K2(8611m/パキスタン)に、日本人女性として初めて登頂(女性としては世界で8番目)。植村直己冒険賞受賞、秋田県民栄誉章受章。草原や砂漠など自然と共に生きる人間の暮らしに惹かれ、旅をするなかで知り合ったシリア人男性と結婚。2012年からシリア内戦・難民をテーマに撮影を続ける。
というプロフィールの方だ。
登山に縁遠い私は富士山すら登ったことがない(静岡県出身なのに!)から、K2という高い山に登頂ってめっちゃすごいし、なによりシリアの方と結婚って……!というのがはじめの感想だった。
ところが読み進めていくうちに、気づいた。
とてつもなくすごいであろうK2登頂について書かれているのは、はじめの30ページだけ。それだけでも登山の過酷さが伝わってきた。
しかしその後に書かれているシリアのことが、とにかく衝撃だった。
温かいお風呂に浸かりながらぼんやりとこの本を読んでいた私は、目の前の状況にとんでもないありがたみを感じた。
清潔で温かいお湯につかれること
喉が乾いたら飲む水があること
そして、誰かに殺されるような恐怖を全く感じずにいられること
なのに私が毎日お風呂で使っているのは、シリアのアレッポで作られた石鹸という皮肉だった。
私と同じように「シリアって危ない国だよね」くらいの感覚の人でも一度この本を読んでみてほしい。
今、目の前にある全てのものの見え方が変わってくるはずだ。
1.小松さんの分岐点となった「シスパーレ」
小松さんはK2登頂から1年後、2007年にシリアのシスパーレに登山に向かう。登頂には至らなかったものの、シスパーレでの経験が小松さんにとっての分岐点となる。
登山には欠かせない荷運びなどに携わる現地の人々と触れてきた小松さん。彼らの伝統を受け継ぐ生活スタイルや、祈りに敬虔な姿、表情の豊かさ、目の輝きなどが忘れられなかったのだという。
それが人間の幸福について考えるきっかけとなり、こうした風土と共に生きる人々の確固たる姿に、私は強く惹かれていったのだった。
自分の視点が山の頂に向かっていない以上、もう、ここには身を置けない。山そのものにではなく、山が生み出す風土に根ざす人間の姿に、私は心を奪われていた。
その1年後の2008年、小松さんはさまざまな風土に生きる人々と出会う旅に出る。
2.シリア人家族との出会い
旅の途中で出会ったのが、シリアのパルミラの砂漠に暮らす遊牧民のアブデュルラティーフ一家だった。
後に小松さんは、この一家の一人であるラドワンと結婚することになる。
アブデュルラティーフ一家は父母と16人の子供、その孫の三世代を含めて総勢60人の大家族。ラドワンは16人兄弟の末っ子だ。
数年に一度しか出生届を出さなかったため、数名ずつの兄弟が、同じ年の同じ一月一日生まれとして戸籍に登録された。
ところかわれば、生年月日もそんなにラフなものなのかと驚く。日本では個人を特定するのに必須と言ってもいいくらい大切なものなのに。
3.日本人としての国家観・宗教観
シリアを訪れた中でラドワンの友人宅に招かれた小松さんは、その一家の長からこんなことを言われる。
日本は小国ながらロシアやアメリカなどの大国と果敢に戦った。戦争に敗れたが、その後に成長を遂げて先進国となった。そうした国のあり方を尊敬している……(なのに)今の日本人はアメリカの意のままにコントロールされている。空襲や原爆によって多くの市民が犠牲になったことに怒りはないのか。いまだに国内には米軍基地もある。戦後何十年も経っているのにおかしいと思わないのか。
日本の国民であるのに、そこまで私は考えたことがなかった。外国の人から見たらそれって異常なのかもしれない。
そしてイスラム教を信仰する彼から、小松さんは日本の宗教観について尋ねられる。
私は自分なりの理解を噛み砕いて説明した。日本人は古代から、自然の細部に神が宿ると考えた。さらに歴史の中で神道と仏教が融合し、柔軟な信仰を形づくった、と。では仏教とは何かと問われた私は沈黙した。……彼らとは宗教について同じ土俵にさえ立てなかった。問題は、彼らの勧誘が強いことではなく、自分自身の宗教観が掘り下げられていないことだった。
「野球と宗教のことは話すな」とよく言われて育ってきた。
アメリカのことも宗教のことも、きっと私も小松さんと同じような反応になってしまう。
しかしそれは、日本という国も自分のことも意識していないことの裏返しなのかもしれない。
どうして戦争であれだけの犠牲者が出たのか。
どうして国際社会で意見を堂々と主張できないのか。
自分の先祖たちが何を信じて生きてきたのか。
改めて考えてみても、今の自分にはっきりと言えることはない。
2008年から2011年までの4年間、小松さんはシリアを毎年訪れアブデュルラティーフ一家と生活を共にする。
どちらともなく、私たちは惹かれ合った。しかしその恋は、イスラム文化の色濃いパルミラにおいてはタブーで、許容されるものではなかった。……ラドワンと惹かれ合うほどに、私は彼とは文化がいかに違うかを知った。そして何より、ラドワンの人生が、彼の家族の人生そのものであることも理解するようになった。
そして2011年シリアで内戦が始まっていく。
4.内戦によって変化するシリア
2010年から2012年までの間に「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の独裁政権崩壊が多くあった。
2011年シリアの政府軍へラドワンは徴兵された2ヶ月後、シリアでも民主化運動が発生し内戦へと発展していく。
小松さんは危険を承知で2012年にシリアを訪れるが、空港の雰囲気が変わったことに気づく。小松さんのような外国人へ向けられる警戒感を強く感じたそうだ。
空港では執拗な荷物検査が行われ、小松さんはカメラを没収されそうになる。なんとかカメラは奪われずに済んだが、その後シリアに20年以上暮らすイギリス人写真家とあった際にこんなことを言われる。
その彼が、「シリア政府は、銃よりもむしろカメラを持つ者を厳しく取り締まっている」と話した。なぜならカメラは銃よりも大きな力を持つからだと。カメラで撮った写真は、情報として世界に拡散される可能性があり、人の心を変え、人生を変え、世界を変える力になり得る。だからシリア政府はカメラを恐れ、ジャーナリストの活動や情報の拡散を血眼になって規制しているのだ。
シリアにいる間小松さんは徴兵期間中のラドワンと何度か会えるが、ラドワンから公共の場ではシリアの現状に関わるようなことは話さないように言われる。
そして電話も盗聴されているから話の内容には気をつけなければならなかった。
ついにはシリア来訪の目的でもあった、アブデュルラティーフ一家との面会も一家から拒否される。
理由は外国人と接触したとなると、アブデュルラティーフ一家に疑いの目が向けられるからだ。
カメラも電話も、悪いことを伝えるために発明されたはずではない。
記憶を形に残せたり直接会わなくても話をすることができたり、人々がより幸せになるように作られたもののはずだ。
それなのにものが持つ意義が悪い方へ大きく変わってしまうしまうというのは、なんだか悲しい。
私たちが今当たり前に使っているインターネットだって、同じことになる可能性だってある。
そしてラドワンは徴兵期間中に脱走し、隣国ヨルダンへ逃げる。
しかしヨルダンでの難民キャンプでの生活は想像と違っていた。
安全を手にした安堵感は、一週間ほどが経つと、実に味気のないものに変わった。やがてラドワンはストレスにさいなまれ、難民キャンプでは人間らしく生きられないと感じるようになった。
ラドワンは再びシリアへ戻るが、そこでもまた苦しい現実に直面する。
そしてまたヨルダンへ戻る。
難民キャンプでは安堵感も多少の食料も得られたはずだが、人間にとって必要なのはそうではないのだ。
難民となるのも苦しいのに、救いを求めた先でもまた苦しむなんて、私は読んでいて心が苦しくなった。
5.難民キャンプの苦しい現実
小松さんが難民キャンプで聞いた難民たちのエピソードは悲惨だった。
「内戦が続く限り、シリア人は誰も普通に死ねない。私はただ普通に死にたい。故郷には家も畑もあったが、ここには何も生活がない。生きることも、死ぬこともできない。」
これは目の見えないおばあさんが語った言葉だ。
このおばあさんが極寒の砂漠を10日間歩き続けてシリアから逃れ、難民キャンプへ向かったことは人生で最も怖かったと書かれていた。
そして辿り着いたのは、生きることも死ぬこともできない難民キャンプ。
「ここにいてもわずかな食料で命をつなぎ、座っているだけの毎日だもの」とフセインの妻が口を開いた。ここには仕事もお金もなく、先の展望も見えない。日々はやることもなく座り続けているうちに過ぎていき、フセインは何のためにここで生きているのかと苦しんだそうだ。
これは子供が二人いるフセインと名乗る夫婦の妻の言葉だ。小松さんが1週間前に話した時には夫もいたそうだが、その後夫は悩んだ結果、反体制派兵士となるため一人でシリアに戻ったそうだ。
きっとヨルダンからシリアへ戻ったラドワンと同じ気持ちだったのだと思う。
“少しでも命が守られる環境へ”
難民キャンプを目指す人々はこんな気持ちを抱きながら、キャンプへ向かうのではないかと思う。
しかしそこでの生活は死ぬことはなくても、生きることもないのだ。
人間は、最低限の生活が保障され、安全を手にしても、それだけでは生きるために十分ではないのだ。ラドワンや、その他大勢のシリア人が、危険を顧みずシリアへ帰るのは、そこが住み慣れた土地だからというだけでなく、人生を自ら選択する自由があるからではないだろうか。働く自由、家族と移動する自由、何を食べ、誰に会い、どこで暮らし、どんな環境を選びとるかという自由。そうした、日々の選択によって自分の生があるという実感。それこそが“人間の命の意義”なのではないだろうか。
6.相手が理解できないということを理解する
ラドワンが戸惑ったのは、“現金がなくては生活が維持できず、生活を維持するために毎日働かなければならない”という現実だった。
日本で生まれ育った私には、「稼いで暮らす」というのは当たり前だった。しかしそれは日本だからだ。
シリアでは、家族や友人とのゆとりの時間(ラーハ)こそが人生の価値であった。だが日本では、ゆとりではなく、夢の実現や人間的成長に価値が置かれている。
シリアのラーハの考え方は“今”をしっかりと生きているのではないかと感じた。日本人の私はどうしても目指す未来から今を考えることが多い。
今生きている自分をもっとしっかりと生きたいと思った。ほんの少しの心のゆとりでも、会話でもいい。今を感じられることを意識的にすること。
小松さんとラドワンは日本のある寺でイスラム教について話をすることがあった。お坊さんも熱心に耳を傾け、互いの理解が深まったと思っていた。
しかし昼食に豚が含まれていることを知り、ラドワンは食事をとることを拒否する。そこで対立が生まれてしまった。
ラドワンは神との約束を守ることを、お坊さんは一片も残さずにいただき食に感謝することを重視していた。……お坊さんたちは、“郷に入りては郷に従え”が当然だと考え、ラドワンは郷に入っても自分の信仰を優先するのが当然だと思っていた。つまり根本的な前提が違うのだ。
自分が“当たり前”だと信じて疑わないことは、ある環境下でしか通用しないはずなのに、どうしてそれを相手にも強要してしまうのだろう。
でもきっと自分だってそうなんだ。大声で話している外国の人を見れば、もう少し静かにしてもいいのに、と思ってしまう。
相手を理解できないということを理解することの大切さを学んだ。話し合って解決しようと思うから衝突することもある。相手が前提すら異なった存在だと受け入れ、価値観が違っても、同じ場にいられる道を探すことが、本当の意味での共生ではないだろうか。
「前提すら異なった存在」って実は自分以外の誰でもそうなんじゃないか。
家族だとしても顔も体も全く違う。日本人だからって同じ人はいない。
国とか肌の色とかで分けるんじゃなくて、違っていて当たり前ってことなのだと思う。
「相手のことを理解できないことはある。じゃあどうやったら一緒に過ごしていけるだろう?」と常に心に持っておくことが必要なのかもしれない。
7.これからの難民
シリア難民が抱える問題の中でも、貧困や孤立などの問題は表面化しやすい。だが、彼らの本当の困難は精神面にある。それは家族や故郷、かつての暮らしから、突然に切り離されてしまったというアイデンティティの喪失によるものだ。
難民の困難さとは、全てを失っていること、帰る場所がないことだ。自らのルーツがありながら、そこに属せない不安定さともいえる。さらには、それぞれの国で難民をそう捉えるかという定義の不確かさにも直面していた。
難民についてどこか他人事な感覚がある。
遠い国で起こっていることだ、と。
しかし心が切り離されている喪失感とか、どこに拠り所を求めるべきなのかという点では日本人も近いものがあるのではないかと思う。
シリアに比べたら日本は物理的なものは比較にならないほど恵まれている。
でも、シリアの人たちよりも何かもっと目に見えないものがぽっかりと抜け落ちているような気がする。
ヨーロッパ諸国では、賛否両論あるものの、過去の世界大戦で大量の難民が発生した歴史から、難民が自立を目指すプログラムが整っている。
大国や国際社会は、同じ土地の同じ人々に対して、一方の手で難民支援を行い、一方の手で難民を生むきっかけになるビジネスを行っているのだ。こうした矛盾から、私たちは目をそらすべきではない。
難民が自立するためのプログラムを整えながら同時に難民を生んでいる。
なんていう矛盾なのだろう。
チェスの駒のように人間たちを扱っている、目に見えない何かの力が働いている。
それはお金であり、国であり、同じ人間なんだと思う。
人間によって分断されたのだから再び人間によって修復できるはずだ。それには、たとえ理解し合えなくてもお互いを認め合う“緩やかな共存”が鍵となる。
理解しきらなくていいんだ。その土地が好きならばそれでいいんだ。
自分たちの価値観を無理やり押し付けてはいけない。
相手は自分とは違う。そこにいつも尊重の気持ちを持たなければ、いつまでたっても争い続けてしまう。
8.シリアの人のまっすぐな願い
シリア人は、国際的に“シリア内戦”と称されるこの動乱に、「内戦」という言葉を使わない。彼らは「革命」という言葉を使うのだ。たとえ現状が混沌そのものであっても、この一連の出来事が、確かに“自由”という人間の当然の権利のもとに戦われたこと。そして破滅に向かうためではなく、いつか実現されるだろう、より良い未来のために起こった出来事だったと信じている。シリア人にとってこの動乱は、民主化という理想のもと、多くの犠牲を出しながら進められようとした歴史的な運動だったのだ。
内戦ではなく、革命と呼ぶこと。
希望さえ失うような現実なのに、シリアの人が失わないまっすぐな想いに心を打たれた。
私はシリアがまた人間の土地として戻ることを心から祈る。
そしていつか自分もラドワンのようにシリアの砂漠の匂いをかいでみたい。
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