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すべての苦しみの正体はただの「執着」である
ヨガでも仏教でも、すべての苦しみの正体は「執着」だ、と教えている。
私はこのことを心から納得していて、苦しいと感じる時は「私は今、何に執着しているの?」と、自分に問うようにしている。
私も含めて多くの人が何かに執着している。
家族、健康、お金、仕事、名声、若さ、過去の栄光、友達……。場合によっては自分の正義、哲学、ポリシー、美学など、無形のものにも執着してしまう。
今、苦しいと感じているなら、それは何かに執着しているからだ。
さらにヨガでは執着が起こる理由を「それは、あなたが無知だから」と説く。
「私が無知だから」物事に執着してしまうということだ。
では「無知」とは何か。
それは「すべてのものが変化する」、ということを知らないということ。
「すべてのものが自分ではない」、ということを知らないということ。
この事実をわかっているようでわかっていないから、なんでも「自分のもの」と執着してしまう。
例えば、多くの人が自分の肉体をイコール自分と考えている。
しかしヨガではそうではない。体は神様からの預かり物にすぎない。
「私は病気です」も、ヨガの考え方ではありえない。
「私の体は病気です。でも私自身は病気ではなく、私自身のままです」
というのがヨガの考え方だ。
ヨガ的には「私」とは永遠に変わらないもの、つまり魂だけである。
心は感じる器官(感覚器)ではあるけれど、イコール魂ではない。
それなのに、私たちは無知だから、感じることや体の状態を自分なのだと勘違いする。
だから私たちはヨガをする。
感じることと私(魂)を一体にしないように、毎日ヨガの練習をするのだ。
嬉しいことがあっても、それは私のところにその時にやってきただけで永遠ではないし、悲しいことがあっても、それは私のところにその時にやってきただけで永遠ではない。そして、出来事も感じることも、イコール私ではない。これを毎日言い聞かせるためにヨガをする。
「変えられるのは自分と自分の未来だけ、過去と他人は変えられない」と多くの人が口にするが、この言葉の本当の意味を理解している人もあまりに少ない。
繰り返すが、ヨガでは自分とは魂のみ。あとは自分にたまたま所属しているものにすぎない。生涯を通して普遍なもののみ=魂だけが自分で、それ以外の例えば身体的特徴、年齢、所属、肩書、お金、仕事、家族関係、友人関係などは、全て変化するもので、自分ではないということを、多くの人が理解していない。「私は幸せです」「私は悲しいです」「私は怒っています」もすべて、心が感じたことであり、それは常に変化するので=私ではない。
私の体、私の仕事、私の肩書、私の家族、私のお金、私の家、私の友達…
そんなものは最初から存在していないのだ。
それらは「私が今たまたま私に関係のある体、仕事、年齢、肩書、家族、お金、友達」であって、普遍のものではないし、私自身ではない。
だからこそ、執着してはいけない。
若いと思っていても歳をとるし、稼げていたのにそうでない日も来る。永遠の愛を誓ってもそれは保証されないし、友達だからわかってくれると思っていても分かり合えないこともある。すべては「私の無知」による勘違い、自己との混同、そして執着によって起こっている。正義や善悪でさえ、人によって変化するもので真理ではないから執着してはいけない。
「諦める」とは本来「真理を明らかにする、真理を納得して執着を断ち切る」
というポジティブな意味。
先日、「強く求めすぎず、決して諦めない日々を。」という雑記を書いたが、ここで使った「諦めない」は「ギブアップしない=投げ出さない」という意味だ。
「生活で感じたことを仕事の糧にし、日々の感謝は惜しみなく貢献することで還元していく」。このことを、私は投げ出さない。
私は物事に執着しないが、投げ出す訳ではない。真理を知ること、つまり「すべては幻想であり、変化することであり、それぞれの想いであり、それぞれの自由であり、それぞれが感じていること」、という真理に納得しているので、諦めていいのだ。つまり、納得して立ち去って良いということ。
人間同士なら分かり合える、という考えも所詮「無知」による執着にすぎない。
物事は私の心にやってきたり、去っていったりするけれど、それはイコール私ではない。このことが本当に納得できれば「私の幸福を妨げるものなど、この世に何一つとして存在しない」ことが理解できる。
「無知(無明)とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすことである」(パタンジャリ・ヨガスートラ5節)
Shanti