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小さな肯定感で社会のひずみを乗り越えていく強さは、むくむくのファーの中にだって存在する

生きぬく力と、アートを生み出す根元的な力は同じ。私にとってのアートは、魂の光から生まれ出たものだ。そういう意味では、人間皆がアーティストだと言えるし、アーティストだからといって、ドクメンタのような国際展に選ばれるような作品を作れるとは限らない。要はつくっている本人が、作品をどう研ぎ澄ますのかが問題なのだ。そして、今回のドクメンタ14のディレクター、アダム・シムジックは、どんな風に研ぎ澄まされた作品を選んでいるのだろうか。

「47会場のうち、パフォーマンスのみの会場も多いから、とにかく4つのメイン会場を目指すといい」

一足先にドクメンタ アテネを見てきた友人の言葉に素直に従い、メイン会場である、アテネ・コンセルヴァトワール、アテネ美術学校、ベナキ美術館、国立現代美術館の、それぞれにかなりのボリュームがある展示を見終えた段階で、私はすっかり、アダム・シムジックのファンになっていた。

社会的・政治的テーマを持つ作品には、時に露悪的だったり観る側の感性を揺さぶるような気持ち悪さがある類のものが存在していて、個人的には苦手だ。しかし、今回のドクメンタ14では、しっかりと社会的な何かに眼差しを向けた作品が多くありつつも、どれも、あくまで品が良い。時には滑稽で、時にはキュートだ。

高さ60cmほどの、地面を掘る仕草を見せる、むくむくとしたフェイク・ファーのフィギアは、可愛らしい存在感で、どんな問いを示しているのだろうか。

大規模な展覧会では、近年、必ずと言っていいほど楽しめる、大掛かりなインスタレーション。一方で、絵画作品も多く取り上げられており、どれも素晴らしかった。

不透明水彩絵具で描かれた、パウル・クレーのようなドリーミーな絵画の連作も。私は美術画商のもとで修行していたので、やっぱり絵画作品が好きだ。しかし、空間を贅沢に使うインスタレーションや映像、メディアアートなどがもてはやされがちな現代アート界では、額付きの絵画はもはや地味な表現手法でもある。そんなご時世で、丁寧に良質の平面作品を選ぶディレクターの、その手つきには、好感を覚えた。

展示空間のつくりかたも秀逸で、特にアテネ・コンセルヴァトワールが素晴らしく、地下室の展示空間が気に入った(上の写真)。空間自体に力のある場所に、作品をどうマッチングさせるかは、キュレーションの醍醐味でもある。まるでもともとそこにあったかのように作品が存在している様子は見事だった。

ところで、アダム・シムジックだが、FRIEZE.comの記事を読むと、

‘We must assume responsibility and act as political subjects instead of simply leaving it to elected representatives.’
(代表者に任せきりにせず、我々は自ら政治的な主体として行動せねば)

と、きちんと政治的で、強い発言をしている。しかし、彼がドクメンタ アテネの展示を通じて見せ続けているのは、表現の自由やパッションと、そのあり方に対する小さくとも確かにポジティブで前向きな肯定を感じさせる何かだと感じる。

焦燥感や切迫感などのネガティブな感情に端を発するものとはちょっと違う。まるで、「隣にいる友人を楽しませたい」なんてシンプルな欲求から創作がはじまり、研鑽の末に高いレベルの技術としっかりとしたコンセプトを勝ち取って、肩の力は抜けているのにどこから見ても質が高い。そんな作品が選ばれているのではないか。

アダム・シムジックによるドクメンタ アテネは、不思議な癒しを与えてくれた。常々、考えていることだけれど、世界にはいまあまりに辛いことがありすぎる。だからこそ、もうネガティブな感情の発露を受け取るのはたくさんだし、人間のいい面をこそ、もっと見たい。

発想は飛躍するけれど、たとえば、社会の中で、政治的な主体となり戦うための武器が、「むくむくとしたフェイク・ファーのフィギア」であってもいいわけだ。そう、そうであれば最高だ。



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