ふだんは考えない「日本」に属す個として存在している感覚に、アートを通じてぶつかる
5年に一度の国際展ドクメンタ カッセルをめぐる1日はまず、郵便局を改修して今年新しくメイン会場の仲間入りをしたノイエ・ノイエ・ガレリーを訪れた。
入り口から、迫力の壁画が迎えてくれる。空想の国の物語が描かれているようだが、どうにもハッピーではない。
国土が侵略されて女性たちが囚われてしまった様子が英字の解説付きで描かれていた。歴史上一度も植民地化されたことのない日本で暮らしていると、なかなかイメージがしにくいのだが、非西洋の現代アートにおいては、植民地化された記憶からどう立ち直るか、どう自国のアイデンティティを再構築するか、が、常に重要なテーマとして表現され続けている。
また、追悼レリーフの制作風景や男女がドイツの街中でゆったりとした瞑想的なパフォーマンスをしている姿に、第二次世界大戦時の生々しい記憶を語る声を載せた映像作品には、釘付けになってしまった。映像中の声は、タイ人の家族がナチス支配下のベルリンに移住し、終戦のごたごたの中で家族は引き裂かれ、声の男性がシベリアに抑留されたその有様の一部始終を語る。「日本軍がタイに侵略するかもしれない」という情報が祖国から男性の元へ届けられた様子も語られていた。
ドクメンタはナチスドイツが退廃芸術と名付けて一部の表現を厳しく弾圧して芸術そのもののあり方を踏みにじった所作に対して、戦後に弾圧されたモダン・アートの名誉回復と負の歴史からの脱却を図ろうと企画されて始まった展覧会だ。しかし、上述した映像作品において、声の男性が個人の体験として語るナチスは必ずしも悪役ではなかった。個人的な視点から、政治的・歴史的出来事を語り出し、「ナチス=悪」と固定化しがちな視点を揺さぶる作用を内包した作品なのだ。
この映像作品に触れて、あらためて日本という国の反省のなさを思った。戦争に対する反省を言及するのは壮大すぎるので、あえて芸術分野に限定していうならば、戦中に戦地で日本兵が戦う様子をありありと描きだした藤田嗣治という画家は戦後、この戦争画制作行為を批判されて嫌気がさし、パリへ移住。生涯戻らなかった。そして、同じく事実上は戦争に協力したと思われる横山大観は、批判を逃れて日本画壇で大きな成功を手に入れている(大観は富士山を描いて、特攻隊員はその絵に敬礼して死の戦場へ向かったとされるが、「あくまでも書いたのは富士山」という大観の主張が通ったようだ)。
藤田に代表される、戦中・戦後の画家たちの右往左往ぶりについては、日本美術史を学んだ人は知ってはいるものの、一般には藤田ファン以外には知られていないのではないか。戦後1955年から現在まで続くドクメンタと比較してしまえば、どうやら日本の芸術界は自己を批判して何かのあり方を再構築する力を、あまり持ち合わせていなかったようだ。
ノイエ・ノイエ・ガレリーは作品数が多く、気がついたら3時間が経過していた。その後、昼食前にもう少し観ようかな、と出かけたTOFUFABRIK(その名の通り豆腐の製造拠点だった場所)での展示がまた、衝撃で、忘れたくとも忘れられない。欧州で最も有名な日本人、佐川一政を取材した作品だったのだ。パリで在学中に同級生の白人女性を殺害して「食して」しまった佐川は、その時の様子をなんと漫画にしている。「なぜ、表現するのか」、「それは出版されるべきではないのでは」。取材者の日本人男性と佐川本人のやりとりが映像上で交わされる。途中、映像の中で佐川の顔が大きく映し出され、彼が食べ物を咀嚼する姿に、思わず「おえぇぇ」となった。しかし、私はこの映像を観る直前には、佐川の可愛らしい子供時代と家族の幸せな風景を映したモノクロフィルムも観ているのだ。
昼食前だというのに、気持ち悪いし、複雑すぎた。
昼食をなんとか飲み込んでから出かけたFRIEDRICHSPLATZでは、ドクメンタ14のアイコンともいえる作品と出会った。
Martha Minujin による《The Parthenon of Books》だ。
神殿を覆うカラフルなドットは、実は本なのだ。
ドクメンタ14のディレクター、アダム・シムジックが打ち立てた「アテネに学ぶ」というテーマを体現するかのような作品で、目に入った瞬間に、ぱあっと意識が高揚して、同時にホッとした。
植民地支配や戦争の記憶、そして人類史上許しがたい殺人の記憶をテーマにした作品群は、強く印象に残りやすいし、そこにアート意義を見出す人も多いとは思う。が、私はアートに「癒し」や、もっと上品な「知的刺激」だって求めたい。強烈な作品の影に隠れがちな、穏やかに人の精神に接近してくるような、静かな魅力をたたえる作品の良さを忘れないでいるようにしたい。