私の百冊 #12 『生物から見た世界』ユクスキュル

『生物から見た世界 (岩波文庫)』ユクスキュル https://www.amazon.co.jp/dp/4003394313/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_kF7OFbVR7YB8E @amazonJPより

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(Amazonで見たところ、単行本は古書しか出てこないので、リンクは岩波文庫版にしておりますが、書影は単行本のものです。)

さて、ユクスキュルである。――と言っても、「誰それ?」という方が多いかもしれない。いやいや、わざわざ僕のこんな駄文を読んでくれるあなたであってみれば、あゝ、今度はユクスキュルなのねえ、くらいに軽く受け止めてくださるかもしれない。しかしそうは言っても世間一般に於いてはほぼ無名に近い人なのではないだろうか? しかしこの人が展開したある概念に関して言えば、かなり多くの人がふと口にしていたり、口にしないまでも見聞きしている可能性は極めて高い。

「環世界」という概念が、それである。

「環世界」は一般的な「世界」となにが違うのか? 「世界」なんてもしかすると存在しないのではないか?とか言われたりするのは、実を言うと、この世には「環世界」しか存在しないのではないか?なんて物騒な話を、ユクスキュルがうっかり本書で呟いてしまったから――なのかもしれないのだ。

ご存じのように、僕ら人類には、たとえば光で言えば「可視範囲」があり、音で言えば「可聴範囲」がある。紫外線の一部は、蝶には見えるけれど、僕らには見えない。超音波の一部は、コウモリには聴こえるけれど、僕らには聴こえない。人類にとって紫外線はないものであり、超音波もないものである。人類はそれらをないものとして生きてきた。蝶の複眼には、花は僕らが見ているのとはまったく違う様子に映っているし、コウモリの聴覚を以ってすれば、真っ暗闇の洞窟の中が手に取るようにわかる。

もちろん現代の科学の力を借りてくれば、花の上に紫外線がつくる模様を浮かび上がらせることができるし、光の届かない洞窟の中を見ることも容易い。たとえば蛾が放つフェロモンも、僕らの鼻はそれを嗅ぐことができないけれど、その存在を明らかにすることができる。しかしそれはあくまでも、人類がわかるようにわかっているに過ぎず、蝶やコウモリがわかっているようにわかっているわけではないのではないか?

人類はつい最近になって、どうやら「世界」には紫外線というやつがあって、なおかつ、そいつを知覚できる生き物がいるらしいという、驚くべき事実を知ってしまった。なにしろ人類には知覚できないのだから、そいつは何色か?なんて訊かれても答えようがないわけだから、名前すら付けることができない。「紫外線」とは、僕らが知覚できる紫色の外側にある、なんだかよくわからない光線、といった名付けに過ぎない。(「超音波」なる命名もまた然り)

現代はそのように、これまで僕らが「世界」だと思ってきた「場」の姿を、刻々と書き換えている。その結果、人類や蝶やコウモリの向こう側に確固として存在すると、僕らがずっとそう考えてきた「世界」とはいったいどんな姿をした「場」なのか、その実在性からして俄かに怪しくなってきた。紫外線を「発見」したと言うけれど、所詮それは人類が知覚可能な形でそれを認識してみたに過ぎず、人類が知覚可能な世界像(すなわち人類にとっての環世界)を、ほんのちょっと書き換えただけなのかもしれないのだ。

ユクスキュルは、このように、蝶が蝶としてわかっている世界、コウモリがコウモリとしてわかっている世界、ヒトがヒトとしてわかっている世界を指して、「環世界」と名付けた。ここでもっとも重要なことは、生物は自らの環世界を飛び出して、他の生物の環世界に生きることはできない、というところだ。生きられないばかりか、想像で埋め合わせることすら、もしかすると不可能なのかもしれないのである。つまり、「世界」は生物の数だけ存在する。――そう結論せざるを得なくなってくる。

この問題を扱った著名な本を挙げておきたい。

『コウモリであるとはどのようなことか』トマス・ネーゲル https://www.amazon.co.jp/dp/4326152222/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_ob8OFb8AVATZ0 @amazonJPより

『今夜ヴァンパイアになる前に』L・A・ポール https://www.amazon.co.jp/dp/4815808732/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_7b8OFbJF8NCE8 @amazonJPより

仲良しだと言われている「コウモリ」と「ヴァンパイア」が取り上げられていることは、たぶん偶然に過ぎない。著者が西洋の人間だから、でもあるだろう。我が国の人間が書けば、『鬼であるとはどのようなことか?』とか、『今夜ろくろっ首になる前に』とか、そんな話になるはずだ。いちど鬼になってみないことには、鬼的世界の真実はわからない。そして、残念なことに僕らは、いちど鬼になってみることはできないのである。(某ベストセラー漫画の話をしているのではありません)

ここで、ちょっと首を捻った方もいるのではなかろうか? 「コウモリ」は兎も角として、「ヴァンパイア」は架空の存在ではないか、と。――実は、そうなのである。ユクスキュルの「環世界」は、このように、生物学の分野よりも多く、哲学・思想の世界で議論されてきた。すなわち、「世界とは何か?」「そもそも世界なんてものが存在するのか?」といった問い掛けに姿を変えて。

生物学的見地からすれば、この文章を書いている僕の環世界と、この文章を読んでいるあなたの環世界とは、当然のことながら同じ世界である。なぜなら、僕とあなたは同じ感覚器官を持って生きているからだ。ところが、哲学的見地からすると、僕の環世界とあなたの環世界が同じであるなんて、当然のように言えるのだろうか?なんて面倒臭い話になってくる。

たとえば、僕が痛いのと、あなたが痛いのとは、本当に同じなのか? 僕の歯の痛みは、あなたにも理解してもらえると、本当にそう請け合えるのか? 僕があなたを愛しているというとき、あなたに僕の愛は正しく理解され得るのか? それとこれとは、もしかすると、まったく違う「環世界」で起きている、別個の出来事なのかもしれないではないか?

閑話休題

森を歩くイノシシについて、僕ら人間は、四つ足で、大きく丸く、焦げ茶色の毛が生えており、さかんに地面を嗅いでいる、といった理解をする。さらにあなたは、哺乳網鯨偶蹄目に属する脊椎動物であり、オスには牙が生えており、興奮させると危険である、といったことまで語れるかもしれない。他方で、ユクスキュルが例に挙げた有名なマダニにとってのイノシシは、その匂いと体温と毛と皮膚の感触のみがわかれば充分であり、子供に母乳を飲ませるだとか、鍋にすると旨いだとか、そんな理解はまったく必要ない。従って、マダニは母乳なんて知らないし、牡丹鍋なんて知らないし、それで全然まったく問題はなく、それが「マダニの環世界」なのである。

うん、非常にわかりやすい。ユクスキュルの本書は、とてもわかりやすい生物学の本である。ローレンツやグールドがわかりやすいのと同じように。これがどうして「世界とは何か?」なんて議論になってしまうのか? きっと、そのように「世界」について考えてしまうのが、ヒトという生物の「環世界」の在り様だから、と考えるべきなのかもしれない。(綾透)

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