日々の泡沫(3)――男子トイレ(小)の例の貼り紙について

まずは、下の写真をご覧頂きたい。

浜松町駅 男子トイレ(小)

男性諸君にはお馴染みの貼り紙である。どこに貼ってあるかというと、男子が小便をする際に立つ、視線の前だ。「男子トイレなんて私わかんな~い」というカマトトな皆さんのために、やや冗長とも言える説明から始めよう。
※僕の奥さんは実際この貼り紙の存在を知らなかったので。

男子トイレのレイアウトには、明確に「大」と「小」の区分がある。もちろん、諺にも「大は小を兼ねる」と謂われるように、「大」で「小」をしても怒られない。が、「小」で「大」をすることは許されない。……いやまあ今はそこはどうでもいい。
男子トイレの「小」は下の写真のようになっている。

男子トイレ(小)

男子トイレ(小)には、このように小便器が横に並んでおり、男子はどれかひとつの前に立って小用を足す。これらが小便を受け止めるわけだ。
初見の女性は、あいだに衝立がないことに驚くだろう。衝立がある場合もないではないのだが、大半の場合はこのように剥き出しに並んでおり、従って隣り合って立つと、視界の端に映り込む。それを嫌い、空いていれば多くの人間が端っこに立つ。実際、端っこがいちばん汚れている。
※ちなみに、手すりに囲われた左手のやつは、四肢に不自由のある人向けに用意されており、実際、僕も足首に酷い捻挫をした際には、しみじみとありがたみを感じたものだ。

さて、問題の貼り紙だが、上の写真の赤い四角の部分――冒頭で述べたように「立った際の視線の前」――に貼ってある。なぜ「立った際の視線の前」なのかと言えば、小用を足す多くの男子が、小便が体内より排出されんとする瞬間に、顔をやや上方に持ち上げる傾向があるからだ。その際、この貼り紙を目にし、おっと…、と己の立ち位置を再確認する。――これは、そのように機能する仕掛けである。
※ちなみに、放尿の際に顔をやや上方に持ち上げるのは、言うまでもなく、射精に似た快楽を感じるからだ。

ところが問題は、この貼り紙の文言である。
貼り紙が期待しているのは、「小便をきちんと便器の中に収めてくれること」だろう。そうすれば周囲の床などが汚れずに済み、掃除の経費も削減できる。利用者が自分で掃除をするわけではない公衆トイレの管理者としては、当然の要求だ。
そうであれば、そのように書けばいい。だが、現状、多くのトイレに貼ってある文言は、冒頭に掲げたように、要求をそのままに記載していない。「いつもきれいにご利用いただき、ありがとうございます」――このような婉曲な言い回しが、現在のテンプレートなのである。
僕の記憶にはないのだが、恐らく当初は「汚さないでください」「きれいに使ってください」と書かれていたものと想像する。それがいつの頃からか、「先にお礼を言う」形式に、ほぼ統一されたのだろう。どこで始まったのか――この文言の発祥の地は寡聞にして知らないのだが、こちらのほうが効果が高いのは間違いない。

いま、「先にお礼を言う形式」と書いた。「先に」から読み取れるように、この貼り紙を目にするのは、事前事後で言えば事前である。すでに放尿が始まっている場合もないではないが、少なくとも事後ではない。そして、「お礼」というものは、時制的に、事後に受け取るものと決まっている。だから、この文言には大いなる違和感が生じる。
しつこいようだが、人が「ありがとうございます」と口にするのは、そのお礼の対象となる出来事が完了した後、である。
厳密化しよう。
たとえば上司に結婚式でのスピーチをお願いしたとする。この場合、「ありがとうございます」は、スピーチを快諾されたときと、スピーチが終わったときと、上司を送り出すときと、ハネムーンから帰ってきて職場で顔を合わせたときと、この四度、口にされる。いずれも時制としては完了時だ。「お礼」とはそのような性格を持つ。

ところが、男子トイレ(小)の前に立つと、事前に「お礼」を言われてしまう。結婚式でのスピーチに喩えれば、スピーチの第一声を発したときに「お礼」を言われるようなものだ。まだ話し始めたばかりなのにお礼を言われるのは、「ちゃんとやれよ」か「さっさとやめろ」か、いずれかの意味合いに違いない。しかし今ここは男子トイレ(小)なので、後者の「さっさとやめろ」はない。前者の「ちゃんとやれよ」であろう。
そう。我々男性は、男子トイレ(小)の前に立つと、このような圧力をかけられる。文言は丁寧な「お礼」だが、そこに含意されているのは、「汚すんじゃねえぞ」という「威嚇」にほかならない。

では、なぜ「先にお礼を言う」のか? 実は、男子は生来的に小心にできているもので、先に「お礼」を言われてしまうと、うまく断れなくなる性質を持っている。
思い出される情景があるだろう。――夕暮れ、放課後の校舎、掃除当番が回ってきた君は、女子生徒から「○○くん、ありがとう!」と、掃除が始まる前に言われてしまい、「お、おう……」と引き受けてしまった記憶……。
女子から「ありがとう!」と言われて気を良くしてはいけない。あれは「しっかりやっとけよ!」という威圧なのだから。そして時制的には、君はまだ掃除を終えていないばかりか、始めてもおらず、引き受けることの快諾すら与えていないのだから。
男子トイレ(小)の貼り紙は、あの苦い経験の反復である。それは、いい大人になった今もなお、我々男子の弱いところを衝いてくる。男子トイレ(小)の前でさえ、「先にお礼を言われてしまう」という形で、脅迫され続けているのだ。(綾透)


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