私の百冊#20 『コレラの時代の愛』ガルシア=マルケス

コレラの時代の愛 ガブリエル・ガルシア=マルケス https://www.amazon.co.jp/dp/4105090143/

画像1

僕がこれを書いている2021年現在、恐らく世界中で『コロナの時代の愛』なるパロディが書かれていることであろう。――いきなり種明かしめいた話をするけれど、本書は、読みながら常に「コレラって関係あるの?」との小さな疑念がつきまとう。別に「コレラの時代」でなくても成り立つのではないか?と思えるからだ。――しかし、これは「コレラの時代の愛」なのである。500ページほどの長編の最後の最後に来て、「あ、ここでコレラか……」と思わず唸らされる。そのように構成されている。まったくマルケスという人は、やはり、とんでもない作家である。

僕の手元にあるのは「2020年5月15日」の「第8刷」だ。これが2020年の5月に増刷されたのは、恐らく偶然ではない。新潮社の担当者さんが、そのとき急に「あ…!」と声を発して机から立ち上がった。もしかすると増刷の計画自体はあったのかもしれないが、「今だ!」と叫んだことは想像に難くない。アクリル板越しの向かいに座る同僚が――それも若く可愛らしい女性の後輩が――怪訝な表情をつくり、「〇〇さん、どうしたんですか?」と尋ねたであろう。内心、「この人また変なこと思いつちゃったのかなあ。巻き込まれるのイヤだなあ……」などと思いつつ。この情景もまた、恐らく間違いない。いつもおかしなことを言い出しては周囲から眉を顰められている困った先輩である。不運にも常にそれに巻き込まれ振り回されてきた彼女としては、まさか彼がそんな冴えたことを思いついているとは夢想だにしなかったのだ。(そんな場面のあと、この二人が「いい感じ」になって行くかどうかまでは知らない)

僕は、『百年の孤独』だけは、三度ばかり読み返してきた。が、他の作品に手を伸ばそうとはしなかった。マルケスは『百年の孤独』さえ読んでおけば充分だろう、いつもお腹いっぱいな感じになるし、との思いがどこかにあったように思う。そこを乗り越えたのは、まさしく「コレラ」と「コロナ」のアナロジーを思ったからであり、要は、新潮社の担当者さんの「今だ!」にまんまと乗せられたわけである。恨めしく思って言うのではない。むしろこの場を借りて感謝の気持ちを表明したいくらいだ。

Amazonの紹介文には記されていないのだけれど、本書の「腰巻」の文句には、「51年9ヶ月と4日、男は女を待ち続けていた……」とある。――そう、我々はこの問題の男の「51年9ヶ月と4日」に付き合わされることになる。酷い話だ。なにしろ「51年9ヶ月と4日」である。その間この男はその女のことしか考えていないのである。いやほんとにもう勘弁してほしい…という気分になってくる。マルケスのペンは、とにかく執拗に、この「51年9ヶ月と4日」を描くのだ。しかし、決して途中で放り出してはいけない。その「勘弁してほしい」からの盛大なるカタルシスが、最後の最後に用意されている。嘘ではない。どうか信じて頂きたい。

もうひとつ、重要な話がある。本書の主人公――「51年9ヶ月と4日」も女を待ち続ける問題の男――は、実は80ページほど読み進めないと登場しない。これもビックリする。「あれ? え、あれ?」という感じになる。「ちょっと、どういうこと?」という感じになる。「こんなのアリなのかよお……」という感じになる。これもまたマルケスの仕掛けなのだろう。びっしりと、見開き2ページに改行が2ヶ所くらいしかないような調子で80ページばかり読み進んできたところで突然、主人公はまだ登場していなかったのだよ、と告げられるのだ。マルケスのほくそ笑みが目に浮かぶようである。(ごめんなさい。これってネタバレですねすみません)

今のこの「コロナの時代」がいくらか歴史的過去となった頃に、ふと、そういえばあのとき『コレラの時代の愛』を読んだなあ……なんて感慨深く思い返すのも、ちょっと悪くないのではないかと思っている。それもこれも、新潮社の担当者さんの「今だ!」のお陰なのだ。感謝、感謝。(綾透)

いいなと思ったら応援しよう!