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つなぐ命脈

 今、私がここに居られるのは、両親がいて、母方、父方の祖父母がいて、更に、ひい祖父母がと…連綿と続き、その一つが欠けても、私が居ない。
 私の存在について、それだけ大切なものなのに、歴史上の著名な一族でもない限り、どこまで自身のルーツを知っていますか?
 知っているつもりでも、親や、親族からの伝聞でそれが正しいのか?
 正当性も考えると、語った人からの目線のルーツということになるのだろうなぁと思います。
 それも残さなければ埋もれてしまう訳で、今まで、いくつかのブログに、
mixi、Facebook、ツィートなどのモバイルを開設してきたけど、これまでにnoteに書いてきた内容を書いたことはない。
 書いてないばかりか、誰にも話したことがないことを結構書いている。
 なんでなのかはわからない。
 わからないが、頭に浮かんだテーマを書こうとして、書きだすと、なぜか脱線気味に別の話題を書き込んでいたりする。
 確かに別の話題だが、テーマの伏線だったり、じゃなかったりしても(笑)
場が違うとこんなにも書くことが違うのかと実感している。
 mixiや、ツィートはそれを通し新しい交友関係が構築されたりしており、
それはそれで貴重な場だなと思っているのですが。
 自分を語るということが不得意、どうも語るのが得意な家族に包囲されており、実際に私が語ることは耳を傾けてもらえず、私は、私の言葉で懸命に話しているのに、聞いてくれず、私が話すことを聞かずに、トラブル発生、なんで先に言わないって言われるが、私は何度も警告していたということがあまりに多くて、元々、話さなくても以心伝心で話すことが不得意な私は、げんなりして話すを失くしてしまうを長らく続けている。
 そういう私にとって、ここは誰にも話さない私なりの秘密が語れて良い。
不思議な居心地の良さを感じている。

 私の母の母である祖母は、美容師学校の教師をしていて、弟子がいっぱいいる立場であったそうだ。
 祖母と幼くして死に別れた母は、遺された三姉妹の末っ子で、男やもめに幼子は無理だろうと仲介する人がいて、祖母の弟子の1人の養女となっていた。
 師匠の忘れ形見という立場の母は乳母日傘で大切に育てられ、養母は子供は子供という方針を貫かれていたらしい。
 子供がいない夫婦に引き取られていたが、母にはとても優しい養父だったが、浮気して子供ができて、夫婦は離婚に至る。
 養母が生活を確立して、師匠の忘れ形見の母を迎えに来るまで、母は育ての母に育児放棄されて、かなり辛い目にあっていた期間がある。
 理由をつけては食抜きされていた母は、絶対に子供に1食も欠かさないと心に誓い、実行してくれた。
 養母にずっと子ども扱いされて、いつ挨拶したらいいのか?とかマナーが身についてなくて苦労したから、子供を子ども扱いしない方針で…。
 我が家は仏教だから、サンタクロースはいない。
 サンタはいないけど世間的にクリスマスの習慣はあるから、お祝いはするとか、親族関係の人間関係もあけすけに言い聞かされて育った。
 
 母は身体が弱く、良く寝込んでいることが多かった。
 私は昼寝が不要な元気な子供で、基本的にいつも退屈していた。
 お兄ちゃんが猛烈に欲しかったが、順番が逆になることは無理になので、
仕方ないからお人形遊びがしたくて妹が欲しかった。
 欲しいものがないかと聞かれると、ずっと兄弟が欲しく、デパートで妹を買ってきてと園児の頃はよくせがんでいた。
 その念願の妹がお腹に宿って、父方の祖父母の家に預けられたりとかしていたが、それは妊娠中の母が転倒により、前置胎盤となってしまい、結局は流産ということになってしまった。
 幼稚園の頃だったと記憶してはいるが、それ以外の詳しい記憶はない。
 10歳歳の離れた弟が産まれて、ガラス越しの対面の時に、父親は病室にいる妻のもとへ先に向かい始め、私は行きかけて、やはり弟が気になって戻りにこーと笑う弟の笑顔に心を射貫かれてしまった。
 一生忘れないと思ったし、今もあのキュートな笑顔は忘れられない。
 
 中学だったか、高校だったか、母はずっとあれこれと話すことが好きで
 私の話す話しは聞きたいことは聞くけど、私の本音とか、気持ちとかは聞いてくれたことがない。聞かれなければ話さなくなるもので、母に対しての私は基本的に終始聞き専であった。
 私が生理痛がひどくて婦人科の病院に行くことになり、母が知っている病院に行こうということになり、それで母が思い出したから、中学生の時だと思い出せた。
 私は生理痛で連れていかれた病院で母は、私が産まれる前に妊娠していた父との子供をある日、父の姉に病院に連れていかれて堕胎したことがあったという、理由はまだ若くて育てきれないから。
 それを夫婦で話し合った結果ではなく、ある日、義姉が来て、あっという間に実行されてしまったそうだ。
 約1歳違いの性別は男の子だとわかるほど育っていた兄は父の意志で葬られ、兄がいたら、私は生まれなかった。
 育てきれないと判断した時から、たった1年の差。
 あちらが立てば、こちらが立たなかったかもしれない選択。
 両親は既に結婚していたので、結婚前という障害でもなかった。
 私にも影響する命の選択に衝撃を受け、母から聞いて、父に確認することも、友達に話すことも、弟にも、誰にも話してない話。

 弟は随分と歳下なんだけど、なぜか兄っぽい行動を自然とするし、痛烈に兄が欲しいと想っていた幼い頃のことを連想して、そこが不思議に結びつかないでいたから、気が付いて、あれ、へー、かなぁとなつているのである。
気づきってなかなかむずかしいです
 

 

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