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【連載】随想録 第4回「高校陸上で目指した走りと歩き」 - ほぼ月刊「庄内わぐわぐ随想録」

皆さま、おはようございます。高校卒業までは「何も無い」田舎だと思っていた酒田を飛び出して上京した少年が、38歳となる年に自らUターンし「わぐわぐ」が溢れる日々に至るまでのストーリー。今回は高校時代の部活動の話です。

酒田市立・平田中(現在は酒田二中に統合)で陥った暗黒時代から、B'zの音楽に救われ若干の浮上を果たした私は、対人コミュニケーションに大いなる難を抱えながらも、酒田東高等学校に合格して進学します。中学時代に陸上部の長距離選手として完全に燃え尽きてしまった私は、入学当初は硬式テニス部あたりに入ろうかと思い描いておりました。

入学オリエンテーションの前の休み時間に、平田中出身の友人と一緒に佇んでいた時に柔和な笑顔を浮かべながら近づいてきたのが、ルパン三世っぽい洒脱な髪型で穏やかな巨人のような人物。それは、八幡中(現・鳥海八幡中)出身の小野直人君でした。小野直人君が陸上部で投擲をしてみたいとのことで誘われて、陸上部の練習を光ヶ丘陸上競技場まで見学しに行くと、2学年上に小・中学校の先輩でもある五十嵐清二さん(山形県庁職員で「やまがたイグメン共和国」大統領の五十嵐健裕さんの弟)がいらっしゃり、気さくに声をかけてくださいました。牧曽根という集落に住んでいた清二さんは、小学校の頃はファミコンのソフト「魔界村」を持って、しばしば私の漆曽根の実家に遊びに来るほどの仲の先輩でした。当初の想定外でしたが、何らかの縁で私は陸上部の長距離に再び入ることになります。

長距離の同学年は、松山中(現・東部中)出身で酒田・飽海の大エースかつイケメンでもある石川智宜(ともよし)君と2人でした。

1997年の山形県縦断駅伝に酒田・飽海チームの選手として出場した、石川智宜君。

ただでさえ人と会話することが苦手だった私は、雲の上のような存在の智宜君(高校時代に県縦断駅伝にも酒田・飽海チームの選手として出場)とは恐れ多くて全く話せず、当時を思い出す智宜君いわく、「高1の頃の彩人は、全く感情の無い人間だど思ってだけ~」とのことです。あまりに人と会話をしない私を見兼ねた同学年の女子達が、陸上部全員でカラオケに行った際に、ZARDの『心を開いて』を歌ったほどでした。

その頃の私は、長距離選手としての実力が圧倒的に不足していたため、確実に県大会に進める種目を探しておりました。一度は、ハンマー投げをやろうと試してみましたが、軽量だった私は遠心力でハンマーから逆に投げられるような体(てい)だったため、あえなく断念。酒田・飽海では1人も選手がいない5000メートル競歩に目をつけ、挑戦することにしました。

夏頃から競歩の練習を始めた私は、天童の陸上競技場で開催された競歩の大会に出場します。そこで、出場選手8人中最下位を独歩していた私は、係員のスタッフが1周数え間違えたのか、最後の1周に入ると思われたところで「は~い、お疲れ様~」とゴールに迎え入れられ、それがなんと公式記録となります。時効だから言いますが、あれは、4600メートルしか歩いておりません。しかし、酒東陸上部で唯一5000メートル競歩を完歩した「酒東記録」として、おそらく今も燦然と輝きを放って残っておるはずです。競歩は一見、楽そうに見えますが、精神的、肉体的に最も過酷な競技でした。酒田・飽海の秋季地区総体では、競歩のエントリー者は私1人だったため地区予選が免除となりましたが、進出した県大会ではゴールした後に、歩型の違反(両足が地面から離れてしまったり、着地の際に膝が曲がっている等)で失格となりました。そこで私は競歩選手としての道を諦めます。

長距離の2学年上には、鳥海中(現・鳥海八幡中)出身の佐藤拓郎さんという先輩がいらっしゃいました。拓郎さんは、実力があることはもちろんのこと、ラストスパートの異次元の速さが笑いと感動の嵐を巻き起こす「魅せる走り」を標榜する先輩でした。拓郎先輩は卒業間際の陸上部の文集で、美しいラストスパートを生み出す秘密を暴露しておりました。それは、ラストに入る前の何百メートルかを「力を溜める」ためにわざとペースを落とすというものです。その拓郎先輩の言い伝えを実践に移そうと考えた私は、高校2年の春に、酒田・飽海の地区総体で3000メートル障害に出場。6位までが県大会に進出できる状況の中、途中までは7位で苦しみながらも、ちんたら走っておりました。そして溜めた力を一気にラストスパートで爆発させた私は、最後の100メートルで一気に4位まで躍り出てゴール。全くの無名かつ目立たない存在だった私は、酒田・飽海の陸上界に「魅せる走り」で一大センセーションを巻き起こします。酒田商業高校の陸上部員の界隈では、その得体の知れない謎の走りを魅せた私のことを、「覇邪(はじゃ)」というあだ名で呼んでいたそうです。その頃から、智宜君や他の部員達とも打ち解けて、何となく支障のない会話ができるようになりつつありました。

天童で行われた酒東陸上部の合宿では、智宜君や1個上の先輩の長距離メンバーと一緒にジョギングをしていた時に「じゃがらもがら」という看板を見つけ、吸い込まれるように山の中へ。智宜君の情報によると、山の中に「じゃがらもがら」という丸い穴がぽっかりと無数に開いており、そこから涼しい冷気が吹き出しているとのこと。その魅惑的な情報に惹きつけられて迷走を続けましたが、結局「じゃがらもがら」へは辿り着けず仕舞い。予定の練習時間を大幅に超えて合宿所に帰った我々は、顧問の宮内先生にこっぴどく叱られたのでした。

その後は、高3の最後の大会に向けて、400メートル×4の通称「マイルリレー」での東北大会進出を目指して中距離の練習を積むものの、私は地区大会のリレーメンバーとして一度走ったのみで、酒東マイルリレーチームは県大会決勝8位に終わり、6位まで進出できる東北大会を惜しくも逃して涙を流しました。専門の3000メートル障害では「魅せる走り」に実力が伴わず、高校時代の部活は大した活躍も無いまま3年の春で引退します。しかし、陸上部での仲間との交流を通じて、人並みに他人と会話ができる、それなりに人間っぽい人間が形成されていったわけです。

次回は、東京に憧れての受験勉強と大学進学の話をしますので、お楽しみにの~。

高校3年の時、山形県高校駅伝に出場した際の阿部彩人。

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