鬼と雨 《七》
笹本さんが呼んだ車で辿り着いたのは、一見、洋風の屋敷に見える建物だった。鉄の門扉の横には木製の看板が掲げられていたが、もう文字はほとんど消えかけて読めない。庭木は育ちすぎて建物に暗い影を落としている。
玄関には大きな下駄箱が二つあったが、履き物は一足も入っていない。入ってすぐのところには受付と案内板が出ていて、硝子戸で隔てられていた。中には薬棚、机の上には薬をすり潰すための乳鉢と乳棒が置かれていた。廊下にはいくつか扉があったけれど、薄暗くてどこまで続いているのかよくわからない。窓から入る光は僅かで、満ちている空気は重く、暗かった。
車を運転してくれた男性がしず姉様を抱えて奥の部屋へ運んだ。笹本さんはつき添い、わたしは待つように言われた。
待合と書かれた場所の固い椅子に座って、わたしは止まった柱時計を見つめていた。金属板には一九〇〇年開院・梧桐産院と記されている。ずいぶんと古いものだ。その時計の針と同じく、この病院はとうに機能を停止しているようだ。うっすらとかび臭く埃っぽい。だけど、風化しない消毒液と――覚えのあるかすかなにおい。
なんとなく、わかった。笹本さんはここで、あの茶色い小瓶に入った薬を手に入れてくる。静電気でも帯びたみたいに産毛が立つ。身体の中がざわざわした。身体が、知っている、この場所を知っていると訴えかけているみたいだ。
どれくらい待っただろう。実際にはそれほど時間は経っていないのかもしれない。だけど見知らぬ場所に一人でいると、時間はだらだらと間延びして実際の進み具合とは違ってしまうように感じた。
ふと、コン、と音がした。コン、コンと何かがぶつかる音は、だんだんと近づいてくる。なんだろう。他に患者さんがいる様子もないのに。わたしは怖くなって下を向き、早く笹本さんが戻ってくるように祈った。
コン、コンと言う音はもうすぐそこまで近づいていた。誰かの息遣いまで聞こえる。わたしはたまらず、声を上げる。
「だ、誰――」
思い切って顔を上げると、立っていたのは子どもだった。小学校高学年くらいだろうか。白いシャツに黒いつりズボン、白いソックスは片方がずり落ちている。格好からして男の子だろうと思ったが、髪型はおかっぱで肌は白く、唇だけが妙に赤くて、女の子のようにも見えた。むすっとした表情でわたしを睨めつけ、手は休まずにけん玉を動かしている。
少年は何も言わない。誰何の声は黙殺され、わたしはそれ以上何か問うことをもできず、赤い球が上下するのを見ていた。
「董子さん、だいぶ待たせてもうて」
声をかけられはっとする。わたしは慌ててようやく戻ってきた笹本さんの元に駆け寄る。
「その子は先生の息子さんや。こんにちは、正太君」
正太と呼ばれた少年は虚ろな目をしたまま、けん玉を続けている。コン、コンと乾いた音を立てて玉が宙に浮いては剣先に刺さったり、皿に載ったりしている。
「ほんに、正太君はけん玉上手やねぇ」
お愛想で笹本さんが褒めると、正太は仏頂面のまま、玉をくるりと一回転させて剣先に収めて見せた。
「正太。あんたはほんまにもう。挨拶くらいしぃ」
少し遅れて現れたのは、白衣姿の人だった。ずいぶんと小柄で、背丈はわたしと変わらないくらいだ。性別と年齢はよくわからない。小父さんのようにも小母さんのようにも見える。後ろでひっつめた髪には白いものが混じり、声は擦れてがらがらだから、余計に正体がわからない。
「梧桐先生。えらいすんません、急に開けてもろて」
「かまへん。うちは診療時間なんか決まってへんから」
梧桐先生はしげしげとわたしを見つめたあと、にぃ、と口の端を上げる。
「董子ちゃん、やな。会うのは初めてやなぁ。身体が弱いて聞いてたけど、顔色ええやないか」
「おかげさんで」
笹本さんが代わりに答えた。わたしは梧桐先生の笑顔が不気味に思えて、艶をなくした床の上で視線を彷徨わせるばかりだった。
「けど、笹本さんはあんま調子よさそうやないなぁ」
「そないなこと、あらしません」
素っ気なく言う笹本さんに、梧桐先生は軽く肩を竦めただけだった。
具合が悪いのだろうか。そんなふうには見えなかったけれど。
急に不安になり笹本さんの袖をきゅっと掴む。割烹着の木綿の感触は慕わしく、騒ぐ心を宥めてくれる。ふと顔を上げると、少し困ったように眉を下げて笑う笹本さんと目が合った。
なんとなしに気詰まりで、わたしは袖から手を離した。
梧桐先生はふう、と大げさに息をついたあと、乾いた声で告げる。
「すぐにうちに連れてきはったらよろしかったんや。掻き出すなら早いほうがええ」
あんまりな言いように、わたしは目をぎゅっと瞑る。悲しみと恐れと怒りがおなかの中で混ざり合って、吐き気がした。
笹本さんは小さく息をつく。その吐息には、先ほどわたしが感じたのと同じ気持ちが溶けているような気がした。重く湿った、やり場のない心は冷たい待合の空気を漂い、澱のようにリノリウムの床を這うように流れていく。
ああ、そうか。笹本さんは最初から知っていたのだ。しず姉様が身籠もっていること。
「お嬢さんの意志を聞かんことには……わたしは、ただの使用人ですさかい」
弱々しく吐き出された声にはっとする。笹本さんは大人だから日々の暮らしでは彼女に頼り切りだ。だけど立場上、自分の思いを口にすることはできないのだろう。
それなら、わたしが言わなければ。本家からどれほど疎まれていようが、わたしは先代の忘れ形見なのだ。わたしが、しず姉様を守らなければ。
「あ、あの……。しず姉様は、子どもを笹本さんとわたしに育てて欲しい、て」
あの日聞いた言葉が本心なのかどうかはわからない。だけど、伝えなければいけない気がした。小さな、小さな命の火は、自らの力だけでは灯り続けることも叶わない。なんて憐れな。
そう思ったとたん、背後からぶわっと風が吹いた。灰色の蝶の群が前方の廊下に吸い込まれるようにして飛んでいく。ぞっと鳥肌が立った。
「育てる、ねぇ」
「お願いします」
「ふぅん。けったいな娘やな」
梧桐先生は片方の眉を上げて、困ったように笑う。
「もう帰ってんか。あんたらがおっても何も変わらへん」
そう言い残し、梧桐先生は奥の病室へと消えていった。
病院を出てもわたしは後ろ髪引かれ、何度も振り返る。梧桐先生の病院はまだ陽も高いのに薄暗く、灰色の靄に包まれているかのようだった。駅までの道はひどく遠く感じた。
ゆっくりと歩くわたしたちの横を、ランドセルを揺らしながら二人の男の子が楽しげに走り抜けて行く。ちょうど小学生の下校時間らしい。線路沿いの道は悪い冗談みたいに明るく長閑だった。
笹本さんは憔悴した様子で、草履を引きずりながら歩いている。ずる、ずると地面を擦って歩く様は急に老け込んだように見えた。
本当はしず姉様のおそばにいたかった。確かにわたしがいても何もしてさしあげられることはないだろうけれど、それでも、おそばにいたかった。
わたし自身が、不安でたまらないから。眠っているお顔を見ていられるだけでもよかった。目覚めたときに手を握ってさしあげたり、背中をさすってさしあげたり、したかった。梧桐先生はそんなこと、してくださらないだろうか。
「しず姉様……」
おなかの子は? あんなにも血が流れて、おなかの子どもはどうなってしまうのか。
――掻き出すやなんて物騒なことを言っていた先生に任せて、本当によかったのだろうか。もっとちゃんとした病院に行くことはできなかったのだろうか。
「心配あらしません。梧桐先生が見てくれてはる」
宥めるように笹本さんはわたしの肩を抱き寄せる。もう一度、小さな声で大事ないと繰り返す。表情は固かった。
わたしは口を噤み、歩いた。駅までの道はひどく遠くに感じる。息が切れ、足がもつれた。最近は身体が丈夫になったと思っていたけれど、今日のことはさすがに堪えたみたいだった。
とぼとぼと歩いていると、向かいの人物と目が合った。腰の曲がった白髪の老婆だ。
じぃ、とこちらを睨むように見ている。
この人……神社で会った人だ。しず姉様とお詣りに行ったときに、熱心に願いごとをしていた。
女の子はみぃんな可哀想。そう言った老婆。
嫌な気持ちを思い出して、わたしは足早に通り過ぎようとした。しかし、老婆の口から意外な名前が飛び出す。
「峰子さんか。あんさん、峰子さんでっしゃろ」
峰子――それは母の名だ。とうの昔にわたしを捨てた女の名前だ。笹本さんは立ち止まり、ゆっくりと老婆のほうを見る。
老婆は目を見開き、にた、と笑う。枯れ枝を上手に組み合わせたような細く頼りない姿なのに、目だけが宝物を見つけたように爛々と輝いている。
「亀島のお妾さんやった……ここらでは知らんもんはおらん。あないな別嬪さんは二人とおらん」
「人違いです。うちはただの使用人ですさかい」
笹本さんの言葉など耳に届いていないのか、老婆は不躾な視線を投げかけてくる。
「あない別嬪やったのになぁ。どないしはったん、えらい面相が変わってしもて」
老婆は不躾な視線で笹本さんを眺め、ふと合点がいったように頷く。
「血ぃか」
笹本さんは珍しくあからさまに顔を顰め老婆を見下ろす。慣れ親しんだ優しい人の顔に浮かぶ嫌悪と侮蔑に、わたしは視線を逸らした。
「あんさんもあの血ぃを飲まはったんか。梧桐先生とこの」
怖くて笹本さんの顔を見遣ることはできなかった。
今、この人なんて言いはった? 梧桐先生とこの、血ぃて?
血――。
お腹の奥がうぞ、と蠢いた気がした。
笹本さんの袖を掴んで、早く帰りたいと訴える。
「まぁ、待ちなはれ。誰にも言わんさかい。峰子さん、あんさんはお仲間ですやろ。においでわかりますえ」
どうしてこの人は笹本さんを峰子さんと呼ぶのだろう。別の人なのに。母は、とうの昔にわたしを置いて消えてしまったというのに。
何を言っているのだろう。何を。
心の中がざらざらする。砂を口に詰め込まれているみたいに息苦しい。
老婆はわたしたちの反応などおかまいなしに続ける。
「あれはな、運のもんやさかいな。あてもええ具合には効かへんかって――」
「いいえ」
存外に明瞭な声で、笹本さんが老婆の言葉を遮る。
「わたしは……望む自分を手に入れましたんえ」
どこか艶めいた声音にどきりとした。ときおり笹本さんから匂い立つ女。わたしの知らない顔があって当たり前なのに、置いてけぼりにされたような不安に襲われる。
「へぇ……さよか。そらぁ、よろしおましたなぁ」
老婆は一瞬目を丸くして驚いていたが、またにたにたと笑って、さよか、さよかと繰り返している。
笹本さんはわたしの手を握り、強く引いた。
「行きましょか、董子さん」
「笹本……さん?」
足早に立ち去ろうとする笹本さんに、わたしは必死でついていった。わたしも、これ以上老婆の言葉を聞いていたくなかったから。
老婆は追ってはこなかったが、いつまでも濁った目が背中を見ているような気がした。
ようやっと駅が見えてきたところで、笹本さんは一度振り返り、息をつく。もう、老婆はいないのだろう。
「あのおばあさんはけったいなことばかり言うて、この辺りではよう知られる人や。ほんに難儀なこと」
適当に調子を合わせていただけなのか。それだけのこと、なのか。
「ほんに、たいへんな一日でしたね、董子さん」
切符を手渡しながら、笹本さんもずいぶんと疲れた様子で微笑む。
電車に乗り込むと、笹本さんはそろりと手を繋いでくれた。
笹本さんも、怖かったんやろか。あないなこと言われて、気ぃ悪くしはったんやろか。
わたしはぎゅっと手を握り返す。
そういえば、笹本さんと手を繋ぐなんて初めてのことだ。水仕事で荒れた細い指先はしず姉様と違ってかさかさと乾いていたけれど、不思議と心地好がいい。
空いた車両はことことと揺れ、疲れた身体を眠りへと誘う。ほんの駅三つくらいの距離だけれど、わたしはずいぶんと長く、深い眠りについてしまったような気がした。