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鬼と雨  《一》

 京の都というけれど、雅やかなのは祇園や四条界隈で、洛西あたりはずいぶんと静かだった。電車も通っていて田舎というほどではないものの、面白いものは何もない。都らしさが遠退く代わりに、少し足を伸ばせば秋には血染めのごとく色づく嵐山の紅葉が見事だし、古くは貴族の遊覧地でもあった桂川がほど近い。

 とはいえ、わざわざ出かけることもあまりない。わたしは生まれついてあまり身体が丈夫ではなく、ほとんどの時間を家とその周辺で過ごしているものだから、終戦後の混乱などどこか遠くを見つめるような心持ちで、自分には関わりないようなことに思っていた。実際わたしはなに不自由なく育てられた。蝶よ花よというよりは、腫れ物に触るような扱いではあったが。

 体力がないものだから学校にもほとんど行っていない。せっかく仕立ててもらったセーラー服は長押に吊されたまま、ほとんど新の状態だった。

 代わりにわたしは矢絣の着物を着て、お庭の花を物色していた。ちょうど盛りの鶏頭《けいとう》を指先で弄ぶ。鶏冠に似ているというけれど、わたしには西洋人形のドレスを逆さまにしたように見えた。天鵞絨ビロードのような毛並みと、端が波打っているところなどは豪華なフリルそっくりだった。色は赤や紅や朱で、とても鮮やか。塀に添ってたくさん植わった鶏頭は、秋のもの寂しい庭で一際鮮やかに咲いていた。

 どの色をお部屋に飾ろうかと鋏を手に見分していると、ふと視界にひらりと何かが掠め飛ぶ。目をやると、それは蝶々だった。

 灰がかった白に黒の斑点、内側は薄い青。あれは蜆蝶だ。揚羽に比べればずいぶんと小さくて地味だけれど、お顔は黒い目がぱっちりとして毛がふさふさと生えていて、なかなか可愛らしい。

 小さな蝶は弱っているのか、ふらふらと頼りなく空を舞う。もう秋だ。あの子の命もそう長くはない。やがて蝶は縁側に座るしず姉様の髪に留まった。

「おいで、董子《とうこ》お隣さんが柘榴の実をくれはったんよ」

 しず姉様が呼ぶ。わたしは手にしていた花鋏でパチンと赤い鶏頭を三本ほど切って、彼女の元に走り寄った。

 藤色の着物の衿は乱れ、半幅帯の上には豊かな胸が重そうに載せられていた。少しくせのある髪は一つに束ねて、舶来のリボンを結わえてある。手招きするその指は、午後の陽射しに照らされながらひらひらと泳ぐ。爪の先はうっすらと赤く染まっていた。柘榴の実を摘まんだせいだろう。

 しず姉様は『早う早う』とわたしを急き立てながら、幼い子のように足をぱたぱたとさせる。着物の裾からぽってりとした白いふくらはぎがちらりと見えた。

 その柔らかそうな肌を羨望を込めて見つめたあと、わたしは目を逸らした。しず姉様のおみ足に比べたら、わたしなんて棒きれみたいでみっともない。きつい目つきも外国人のような高い鼻も、あまり気に入ってはいない。柔らかい色は似合わないから、着物は黒や紺ばかり。だけど驟雨のようにまっすぐで艶のある黒髪だけは自分でも美しいと思える。それが、女の子としてのわたしの自尊心を支えてくれていた。

 隣に腰かけると、しず姉様は満足そうに唇を綻ばせる。

「はい、董子。あーん」

 赤い歯のような果実を指先でもぎとり、しず姉様はわたしの唇に押しつけてくる。軽く開くと、くい、とその粒を押し込まれた。つるりとした舌触りの小さな実は、歯を当てると容易にはじけて果汁が迸る。

「甘酸っぱい」
「ね、おいしいねぇ」

 しず姉様が同調する。しず姉様は昭和八年生まれだから、わたしよりも四つ年上、もう十七になるのに声音は少し子どもっぽい。

 しず姉様は亀島本家の末娘だ。亀島は江戸時代から続く呉服店を営み、昭和になってからは手広く服飾品を扱っている商家だった。しず姉様は亀島のお嬢様として何不自由なく育った。気取ったところがなく、妾腹のわたしにも分け隔てなく本当の妹のように可愛がってくださった。妾腹といっても、しず姉様とお父様が同じなわけではない。

 わたしの母は先代の妾だった。老いらくの恋に溺れた先代……わたしの父は、母と、孫ほどの年の離れたわたしを溺愛した。この家は父が愛人のために建てた家だ。家督を息子に譲ると、晩年のほとんどをここで過ごした。父が死ぬと、それを待っていたかのように母は七歳のわたしを置いて蒸発した。今、どうしているかは知る由もない。当然ながら、妾腹であるわたしは本家筋からは疎まれていた。

 父の遺言により、この家はわたしのものとなった。とはいってもまだ十四歳のわたしが一人で暮らせるはずもなく、身の回りの世話をしてくれるお手伝いの笹本さんと二人で暮らしている。茅葺きの屋根に縁側、庭には金柑と柿の木が植わり、小さな花壇には季節の花が咲く。池もなければ坪庭もない、素朴な田舎風の佇まいだ。東山にある本家の四分の一にも満たない広さだが、笹本さんと二人では持てあます。前庭に番犬でもいれば寂しくなくてよいのだけれど、あいにく笹本さんは動物が苦手なみたいだ。

 この家にしず姉様が預けられるようになったのは、夏の終わり。詳しい理由は聞いていない。わたしとしては、年も近く仲よくしてくださるしず姉様と過ごせるのはとても嬉しいことだった。

 ご両親との仲があまりよくないことは、薄々勘づいていた。お父様は無関心で、お母様はずいぶんとしず姉様にきつく当たる人だった。

 しず姉様のお母様からは、しっかりと娘を見張っていろと命じられた。そのときの顔が忘れられない。怖い、とも違う、なんとも言えない不穏な影がこびりついていたような気がする。あの方はわたしを嫌っている。妾の娘など嫌われて当然だけれど、そんなわたしに何故、見張りなど命じたのか解せない。離れて暮らしてさえ娘を監視しようとしているのかと思うと、しず姉様が不憫でならなかった。

 わたしはしず姉様を見張るというよりも、守って差し上げるつもりでそばにいる。何ができるというわけではないが、寂しくないように寄り添うことくらいなら。

「どないしたん、董子。難しい顔して」

 知らず知らず硬い表情になっていたのだろう。しず姉様に顔を覗き込まれてはっとなる。好奇心に満ちた目がまっすぐにわたしを見ていた。

 慌てて顔を背け、動揺を隠そうとしず姉様の手の中から柘榴の実を一粒もいだ。西日に照らされてその赤はさらに鮮やかに妖しく艶めく。

「柘榴て、綺麗やね。宝石みたい」
「そっくりな宝石があるんよ。石榴石って言うて、血のような赤い色の」

 見てみたい。だけど少し怖い。血のような色だなんて。わたしの僅かな怯えなど気づかない様子で、しず姉様はさらに恐ろしいことを口にした。

「董子。柘榴て、人の肉と同じ味がするんやて」「人の、肉……」
「こんなふうに、甘酸っぱいんかなぁ」

 赤い歯のような果実を指先でもぎ取って口に運ぶ。滴る果汁が血に見えて胸の裡をざらりとした舌で舐められたような心地になった。

「わたしは、お肉はあんまり……」
「好き嫌い言うてたら、綺麗になられへんで」「……ええもん」

 しず姉様と比べたら、目鼻立ちも体つきも見劣りすることくらい自覚している。しず姉様ときたら、まるで舶来もののお人形のようにぱっちりとした大きな目をして、睫だってくるんとしている。ふっくらとしたほっぺたも、柔らかそうな唇も、何もかもが愛らしい。色が白くて、肉づきのよい肢体は見るからに健康そうだった。

 しゅんと項垂れると、しず姉様は笑ってわたしの肩を抱き寄せた。

「冗談や。董子は、綺麗や。別嬪さんになった」「うそ」「うそやない。すらっとしてて羨ましい。うちはあっちこっちぽてぽてお肉がついてしもて」

 むにっと自分の腕を掴んで、しず姉様は朗らかに笑う。そういえばしず姉様はもともとふくよかだったけれど、このところさらに頬に丸みが増した気がする。

「董子は大人んなったらもっと美人になるわ。だって小母様によう似てるもん」

 頬をそっと摘ままれて、わたしはなんと答えていいかわからず目を逸らした。

 母の顔は朧気にしか覚えていない。家にある写真も一枚きりだ。白髯の老人と、若く麗しい女、腕に抱いた赤ん坊はわたしだ。そのはずだった。だけど実感は薄い。写真はめったに見ることなく、文机の上の辞書にそっと挟んである。

 七つならばもっと鮮明に母の面影を覚えていてもよさそうなものなのに、思い出せるのはいつも後ろ姿ばかりだ。いつもは簪一つで結い上げている髪を下ろし、三面鏡の前で丁寧に梳っている。柘植の櫛が黒髪を滑り落ちるたびに艶は増し、椿油の香りがぷんと鼻をつく。鏡に映る母の顔は物憂げで、口に咥えた玉簪の鮮やかな珊瑚の色、それから唇の下のほくろがやけに婀娜っぽく、幼心に見てはいけないものだと感じた。

 わたしは声をかけることができず、引き手に手をかけたまま襖の隙間から眺めていた。

 ぼんやりしていると、ふいにしず姉様に抱きつかれた。ふくふくとした指がわたしの胸元をまさぐる。

「ひゃっ……」
「お乳はまだ小さいなぁ」
「ちょっと、しず姉様……やめ……」
「いやや。やらこうて気持ちええもん」

 こんなに肉の薄い胸でも触れると柔らかいのだろうか。自分ではそうは感じないけれど。

 くすくすと笑いながら、しず姉様はわたしの胸を弄ぶ。身体が密着して、なんだか頭がぼぅっとしてしまう。うなじから匂い立つのは舶来の香粧品だ。婚約者に贈られたのだと言って、とっても綺麗な硝子瓶を見せてくれた。

 しず姉様は直にお嫁に行く。予定ではもう結納を済ませている頃だと聞いていたが、それも先延ばしになっているようだ。理由は知らない。

 しず姉様がお嫁に行ってしまったら、きっとこの家は寂しくなる。わたしだけ、置いてけぼり。父は逝った。母は去った。本家にわたしの居場所はない。

「あ……」

 また、蝶だ。今度は二匹連れだって、ゆらゆらと遊ぶように飛んでいる。その様が可愛らしくて、しず姉様の袖をそっと引いて、蝶を指差した。

「なぁに? 董子」
「うん。ちょうちょ。ほら、あそこ……」

 童女のようにしず姉様はぱっと表情を輝かせる。わたしと同じに、生き物が好きなのだ。夏の間は蝉や黄金虫を捕まえて家の中に放っては、笹本さんを驚かせた。甲虫を見つけたときには二人して西瓜をあげたり木の葉や小枝で寝床を拵えて大事に大事に世話をした。だけどもともと弱っていたのか、三日ほどで死んでしまった。

「どこどこ」
「あそこ。ほら、鶏頭が植わっているとこ」
「なんも、おらんけど」

 しず姉様は目が悪くていらっしゃったかしら。
 不思議に思ったけれど、それ以上問うのはやめた。少し気詰まりな空気に身を堅くしていると、勝手口のほうから声が聞こえた。

「あらあら、お嬢様方。まだ縁側にいらしたんですか。日が傾くと冷えますよ。戸を閉めて中にお入りになって」

 買い物から帰った笹本さんが、朗らかに急き立てる。

「お二人とも、手ぇ洗てらっしゃい。豆大福買うてきましたよ」
「わぁ。ほんなら、うちお茶煎れるわ」

 ぱっと顔を輝かせて、しず姉様が素早く立ち上がる。ぱたぱたとはしたなく足音を立てながら台所へと走って行った。

 わたしはようやく鶏頭を切ったことを思い出し、笹本さんに問う。

「笹本さん、小さめの花瓶はどこにしもたぁる? お部屋に鶏頭を飾ろ思て」
「あとで探しときますね。とりあえず水切りしてバケツに入れといてください」

 土間ではしず姉様が鼻歌交じりに湯を沸かす。しばらくすると、お番茶の芳ばしい香りが漂ってきた。

 わたしは隣でバケツに水を汲み、鶏頭を入れた。笹本さんは買ってきた豆腐や魚を冷蔵庫に入れる。本家には電気冷蔵庫があるが、この家では氷を入れる古い冷蔵庫を使っていた。

「董子は、おやつのあとはいつものお薬飲むでしょ。お白湯も入れとくさかい」

 盆に湯飲みを四つ用意して、しず姉様は先ほどと同じくぱたぱたと足音を立てて居間へお茶を運んだ。

「ほんにええお嬢様やこと。気取りのうて、こまめに動いてくれはって」

 笹本さんは腫れぼったい細い目をさらに細めて微笑む。彼女はあまり器量がよくない。三十代半ばらしいのだが、苦労人だからなのか、老けて見えた。お化粧もせず顎ほどに揃えた断髪には白いものが混じっている。それに、額には大きな痣があった。

 だからいい歳をして独り身なのだと、本家の奥方様が言っていた。そのときの奥方様の顔のほうが、わたしにはよほど醜く見えたけれど。

「ほんに、ええお嬢様やのに――」
「どないしはったん、笹本さん」
「なんもあらしません。さ、おやつにしましょ」

 待ち遠しそうにしていたしず姉様が、経木の包みをほどいて手づかみで大福にかぶりつく。口の端に白い粉をつけて本当においしそうな顔をして食べるものだから、わたしまで欲張って二つ目に手を伸ばしたら、笹本さんに止められた。お夕飯を食べられなくなるからと。

 二つ食べられるしず姉様が羨ましくて、わたしは頬を膨らませた。すると笹本さんとしず姉様は顔を見合わせて、それからしばらく笑い合っていた。

 本を読むのだと言ってしず姉様はお部屋に戻った。奔放で子どもっぽいところもあるけれど、しず姉様は勤勉だった。本家の書庫は立派だけれど、出入りを禁止されているらしい。その点、この家では書斎に残された父の本は好きなように読むことができた。蔵書は雑多で、学術書もあれば推理小説もある。わたしのお気に入りは、挿絵の多い詩集や植物画集だけれど、しず姉様は難しそうな本も読んでいた。

「家で読ませてもらえるんは婦人読本か、家庭の医学くらいなんやて」
「そらまぁ、つまらんこと」

 笹本さんは薬の準備をしながら微笑む。わたしは冷めて飲みやすくなった白湯で口を湿した。これから薬を飲まなくてはならない。虚弱な身体が怨めしい。

 薬は嫌い。オブラートは上顎にくっつくし、破れようものなら苦い味が口いっぱいに広がって、濯いでも濯いでもしつこくその味は留まり続けるのだ。

 お盆の上にはいつもの粉薬とオブラートの薄っぺらい箱、それから見慣れない小瓶が載っていた。茶色の遮光瓶で、ラベルは何もない。わたしの視線に気づくと、笹本さんは小瓶を手に取り微笑む。

「これは滅多に手に入らへん貴重なお薬です。滋養があって虚弱な人にはええて、お医者さんが言うてはりましたんえ」

 鼻を近づけてみるとなんとも言い難い、咽せるような臭気がした。液体は僅かにとろりとしていてる。黒っぽく見えるのは、瓶が茶色いせいだろうか。

 思わず顔を背けると、笹本さんはいつもより少し厳しい顔をした。

「ちゃんと飲まなあきまへん。丈夫な身体になるためやさかい、辛抱して飲んでください」

 仕方なく、思い切ってひと息に飲み干す。酸いような苦いような味にぶるりと震えが出た。ほのかに、甘いような気もした。

 喉を通り過ぎるとき、何かにぞろりと身体の内側を撫でられたような気がした。

 飲み終わったあと、わたしは一頻り咽せた。身体が拒絶するのか、何度も嘔吐くのを耐えなければならなかった。

 だけど、これで元気になれるのなら……。

 しず姉様と一緒にお出かけできるだろうか。百貨店で洋装のお店を覗いたり、喫茶店で赤いチェリーがのっかったパフェーを食べたり。それともハイキングに行こうか。庭や近所の草むらよりもきっと、たくさんの珍しい鳥や花や虫が見られるだろう。その名前を、しず姉様はご存じだろう。一つ一つ、教えてもらうのだ。そうしてそれを帳面に綴っておこう。

 とても素敵な考えだ。その帳面はきっと、生涯の宝物になるだろう。

 夢想の中、わたしは身体に留まる何かの気配を殺した。


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