鬼と雨 《四》
十一月も終わりに近づけば朝夕はずいぶんと冷え込む。
庭に咲いていた鶏頭はとうに枯れ、桔梗の姿もない。代わりにお隣の生垣では山茶花が今にも綻びそうに蕾みを膨らませていた。
ずいぶんと肌寒くなったというのに、わたしは鏡の前で頬を火照らせていた。じわりと額に汗が滲む。
胸元には艶やかな友禅の振り袖があてがわれている。卵色の地染に柔らかい色調で草花が描かれ、合わせた帯は絢爛な西陣織。見るだけでため息が出るような品物で、それが自分の身体に触れていると思うと緊張で動けなくなる。
しず姉様はにゅっと鏡に映り込んできて、わたしの肩を抱き寄せる。
「よう映るやんか、董子」
「そないなこと……」
こういう淡い色は似合わない。わたしが似合うのは紺か黒、色味が欲しいときは赤。いつの頃からかそう決めつけていた。だから普段身につけない色が顔の近くにくるとむず痒いような、さぶいぼが立つようなおかしな心持ちになる。
「似合う似合わんは慣れや。着てたら自然に馴染んでくるて」
「董子さんは華奢やさかい。帯を可愛らしいのにしたらええんちゃうやろか」
しず姉様に同調し、笹本さんまでが頷きながら言う。目上の二人からそう言われるとあまり嫌がるのも強情な気がして、仕方なく鏡の中の自分と目を合わせた。
いつも青白い顔がほんのりと紅潮して、なるほど、血色がよければ少しはマシに見えるのかもしれないと自分に言い聞かせる。
「可愛らしいのんかぁ……そやなぁ。今日届けてもろた中に、鴛鴦の刺繡入ったんあったかいな」
うきうきとした様子で目当ての物を探す。部屋には畳紙に包まれた着物や帯がいくつも運び込まれていた。本家の使用人に頼んで、しず姉様が自分の持ち物を持ってきてもらったのだ。
「ふふ。うちのお下がりやとだいぶ裄が余るなぁ。仕立て直しせなな」
「董子さんはまだ育ち盛りですさかい。直すんは待ったほうがよろしいんとちゃいますか」
「せやなぁ」
しず姉様と笹本さんはわたしを差し置いて、着物の寸法についてああでもないこうでもないと楽しげに話し合っている。わたしは置いてけぼりだ。
「せやけどこないな高価な着物……うち、着ていくとこもないし」
「うちに見せてくれたらええやん。一緒に初詣しよ。ほんで、羽子板つこ」
しず姉様はお正月にも本家に帰らないのか……。それで本当に大丈夫なのかと不安になるが、わたしは心の中でひっそりと喜んでいた。女三人、この家で静かに新しい年を迎える。床の間に白い水仙と千両を活けて、晴れ着を纏って近くの神社へ初詣に行って、笹本さんが作ってくれたお煮染めとお雑煮を食べる。羽子板をついて、それからかるたではなく花札で遊ぶ。
頭に描いてみるとそれは完成された絵のような光景だった。わたしたちは本当の姉妹、そして笹本さんは本当の母親に見えるだろう。
しず姉様は知らないお金持ちのところにお嫁に行ったりなんかせず、わたしたちと暮らすのだ。女三人、肩を寄せ合って慎ましく生きていけたなら。
「しずさん。お正月くらいは帰ったほうがええんちゃいますか。家族で過ごす最後のお正月でしょう」
わたしの夢想に水を差すように、笹本さんが控えめに苦言を呈した。
「お母様もきっとそのつもりでいはるでしょうに」
「ううん。あの人は……うちのこと、好きやないから」
「好き嫌いだけのことやありません。本家には体裁もありますさかい」
「ん……言われてみたら、そやな」
寂しそうにしず姉様は俯き、しかしすぐに気を取り直したように近くにあった畳紙を広げる。
「なぁ見て、董子。この柄行きもええやろ。それからこのビーズ刺繡のバッグ。ちょっと重たいけどな、着物でもドレスでもしっくりくる」
花薬玉が大胆に配された錦紗はとろりと肌に添い、バッグはきらきらと華やかだ。
「うちな、董子にもろて欲しいもんがようさんあるねん」
朗らかにいうしず姉様の顔を見ていられなくて、わたしは目を逸らした。
そんなんまるで、形見分けみたいやないの……。
しず姉様は、春にはお嫁に行く。時間はあといくらもない。意に染まぬ相手との婚姻は、女にとって死出の旅なのか。
好いた人がいるのに他の相手に嫁ぐのは辛いことだろう。家のことを考えると駆け落ちもできない。だからせめてそのときがくるまで……そう思ってしず姉様は史生さんと密かに逢瀬を重ねているのだろうか。
愛して、いらっしゃるのだろうか。しず姉様は、史生さんのことを。
わたしは、しず姉様と史生さんの関係をあまり考えないようにしていた。あの日見た光景は白昼夢か何かだと、自分に言い聞かせた。だってあんなにたくさん蝶が舞うなんて、おかしい。しず姉様と史生さんの顔が見えなくなるほどの夥しい数の蝶なんて……。
思い出すと身震いが出た。あの蝶はなんだったのだろう。あまりよいものとは思えなかった。
「どないしたん、董子。怖い顔して」
「えっ、ううん、なんもない……」
屈託なく微笑むしず姉様の顔に翳りはない。縁起でもない考えを追い払い、わたしも笑みを返した。会話が途切れたところですかさず、笹本さんが口を挟んだ。
「そや、明日はちょっと四条まで買い物行きますよって。お二人とも、何か入り用なもんありますやろか」
「あ、ほんならわたしも……」
わたしは慌てて笹本さんに同行したいと告げた。自分からこんなことを言い出すのは珍しいことだ。だから笹本さんは訝しげに、しず姉様とわたしを交互に見る。
「いやや董子。明日は家におって。本でも読んで、一緒に留守番しょ」
笹本さんが顔を見張る。しず姉様は頑なにわたしを見つめて、目を逸らさなかった。頷けずにいるわたしの手を、しず姉様はぎゅっと握ってくる。ふかふかと柔らかく、温かい手だった。
こんなふうに言うのは、明日は史生さんはこないからだろうか。それなら、いいのだけど……。
「それがよろしいわ、董子さん。明日は寒ぅなりそうやし」
庇から見える曇天を窺う笹本さんに逆らうことはできず、首を縦に振った。
「帰りにお薬ももらいに行きますさかい。だいぶ歩きますよって、董子さんにはえらい思いますわ」
笹本さんの口調でなんとなくわかった。かかりつけのお医者様へいつものお薬をもらいに行くのではない。あの、お薬のことだ。茶色の小瓶に入った、とろりとした、喉に絡みつくような液体の。滅多に手に入らないと聞いたから、あのとき限りかと思っていた。
「身体のためですさかい」
慰めるように言って、笹本さんはしず姉様が広げた着物を畳み始めた。わたしたちもそれに倣い、部屋中に散らばった花畑のような着物や装飾品を片づける。
どれもこれもきらきらとして美しく、華やかだった。同じ年頃の娘ならば一度は袖を通したい、身につけたいと思うようなものばかり。だけどこれらは、しず姉様のお気持ちを慰めることはあっても、けっして満たしはしないのだろう。
その日の夜、わたしはなかなか寝つけなかった。
カーテンの隙間からさし混む月明かりの中、箪笥の上に置いた人形と目が合った。なんとなくもの言いたげに見えて、わたしはあめを腕に抱く。一瞬、ずしりと重く感じたのは気のせいで、すぐに元の軽さに戻った。
あめはいつもと変わらない愛らしい表情でわたしを見つめている。しず姉様とよく似たふっくらとした頬はひんやりと冷たい。頭部を探るとやはり、小さな突起がある。つるりとしていて、それほど尖ってはいない。
この手触りにもすっかり慣れて、わたしはあめと戯れるときには必ずその可愛らしい角に触れる。これもあなたの愛おしい一部、けっして忌むべきものなどではないと心の中で呟きながら。
次の日、笹本さんが出かけたあと、しず姉様はわたしの髪を梳りながら囁くように告げた。
「なぁ、董子。今日は史生がくる」
そんな気はしていた。わたしは鏡台の中のしず姉様から目を逸らし、笹本さんの使っている美容クリームを見るともなしに見る。薄紫のラベルにはお化粧をする女の人の絵があった。何気なく手にとって蓋を開けてみると、ぷんと鼻をつく香りがする。甘ったるくて、あまり好きな香りではない。
母の香りもこんなだっただろうか。よく思い出せない。そういえば、昔は鏡台にはもっとたくさんの化粧品が並んでいた。舶来の口紅ははっとするほど鮮やかに母の唇を彩り、わたしを遠ざけた。母ではない、女なのだとその赤が笑う。母ではなく女だからお前に飯を食わせてやれるのだと。
母を思い出すといつも暗くやるせない気持ちになる。わたしを置いていなくなった人。今頃、どこで何をしているのだろう。父から解放され、新たな人生を送っているだろうか。わたしのことなど忘れ。わたしには何一つ関わりのない日々を、幸せに暮らしているだろうか。
「なんや顔色悪いなぁ、董子。具合悪いんか」
「いつも……こんなもんとちゃう?」
問いかけたしず姉様のふっくらと上気した頬と比べると、いかにも血色が悪くぬくもりを感じない肌に、わたしは小さく息をつく。お化粧をして顔に赤みが差せば少しはしず姉様のように愛らしくなるのだろうか。
しず姉様はゆっくりと丁寧にわたしの髪を梳きながら、鏡越しに顔を覗き込んできた。
「董子は、史生のこと好きやないて言うてたけど。ほんまに?」
「うん……」
「ほんまに? ちょお気ぃ弱いけど男前やし、優しいで?」
「それは、そやけど……」
「お金はあらへんけどな」
苦笑して、しず姉様はわたしの髪を撫でた。
「董子の髪はほんにまっすぐで艶々で綺麗やなぁ。櫛がすーっと通って気持ちええわ」
うなじに吐息がかかり、くすぐったくてわたしは肩を竦める。
「なぁ……董子。早よう大人になりとうない?」
耳元で囁きながら、しず姉様は身八口から手を忍ばせてわたしの乳房に触れた。しず姉様の指先は思いのほか冷たくて肌が粟立つ。
「や……っ、なんなん、よして」
「十も二十も上のおじさんにこんなんされるより、史生のほうがなんぼかましやない?」
「え……」
しず姉様の声音は何でもないこと似ようにその言葉を紡いだけれど、それが一層に生々しく感じた。しず姉様の柔らかい指先が突然、おじさんの硬い皮膚に覆われた太い指に変わってしまったような気がして、ぞわりと全身総毛立つ。
芋虫みたいに不格好で、ごわごわしていて、汗で湿っているのだろうか。それが肌の上を這い回る。振り払っても振り払っても執拗に絡みついてくる。芋虫はお尻から糸を出してわたしを絡め取っていく。
嘔吐きそうなのを堪えて身体を固くしていると、背後ですん、と鼻を啜る音がした。その途端、呪いが解けたように男に触れられている幻は消えた。
「うちは……嫌や。嫌やなぁ……」
わたしの薄い乳房をまさぐるしず姉様の手は震えている。湿っぽい吐息がわたしのうなじを濡らす。わたしは衿から手を入れて、しず姉様の手に触れた。
言葉はかけられなかった。何を、言えばいいのか。
それでも、しず姉様はお嫁に行くのか。十も二十も上の男の元へ。
――母も、同じような気持ちでいたのだろうか。自分の父親とそう変わらぬ男の妾として、幾年かを過ごした。美しく身をやつし紅を引き。
鏡の中で、蝶がひらりと一羽、過ぎっていった。