鬼と雨 《十一》
わたしは四月からは新しい中学校へ通うことになる。最近はずいぶんと体力もついたことだし、行かせてもらえる限りはしっかりと勉強するつもりだ。一人で生きていくために。
わたしに与えられたのは、しず姉様のお部屋だった。日当たりがよく、窓からは内庭に咲く河津桜が見える。ちょうど今が花の盛りだ。
立派な三面鏡、飾り棚にはたくさんの小さな置物、硝子ケースに入った藤娘や姫達磨。いかにもお嬢様のお部屋だ。文机の上に置かれた古びた本は、家庭の医学と花嫁の心得。わたしは市松人形のあめを文机の上に飾った。ここが、一番よくお顔が見えるから。
しず姉様の愛らしいお部屋なのに、どこか冷たい感じがする。何もかもお仕着せの、女の子の部屋だから。しず姉様はここで息を殺して、ひたすら望まれるままに呉服の大店のお嬢様として生きてきたのだろう。
自分の部屋として使っていいと言われたけれど、運んでもらった身の回りの品はまだ荷ほどきもしていない。自分の物を置くと、しず姉様の気配が薄れてしまうような気がして。
新学期が始まるまでに今日こそはと、荷物を解き出したところで、襖の向こうから声をかけられた。
「董子さん、少しよろしい?」
絹江さんはわたしの返事を聞くと、オレンジジュースとお菓子を載せたお盆を持って入ってきた。
「ジュースはきらい?」
「えっ、いえ、瓶入りのジュースやなんて、お誕生日かお正月くらいしか飲んだことのうて」
「サイダーもあるさかい、また明日にでも開けたげましょ」
こぽこぽと小気味よい音を立てて、鮮やかな橙色の液体をグラスに注いでくれた。普段飲み慣れないわたしにとってそれは酷く甘くて、喉に引っかかって少し咽せた。
「どないですか。こちらの暮らしには慣れましたか」
「はい、あ、いえ……お屋敷が広うて……ちょっと、落ち着きません」
「ここは息が詰まるでしょ。うちも、お嫁にきたばかりのころはそうやった。親の決めた縁談で、旦那さんの顔も知らんと嫁いできたんよ」
そういう時代やったから。
乾いた声が擦れて吐息に変わる。結婚は、絹江さんにとってはあまり幸せなことではなかったようだ。
「今年はばたばたしてお雛さん出されへんかって。来年は、一緒に飾りましょ。女中さんも一緒に、みんなで飾るんよ。しずも小さいころはよう手伝うてくれて」
芝居じみた明るい声で繕い、つい、と絹江さんはわたしのそばへ寄ってくる。
「董子さん。しずの話、聞かしてくれる? 思い出に浸ろうにも、あの子との思い出なんかたいしてあらへん」
申し訳なさそうに俯いて言う様子には、以前の気のきつい面影などまったく見えない。今はただ、娘を失った気の毒な母親でしかないのだ。
「ほんまに、ようしてくれはりました。優しいて、物知りで、よう気ぃつきはって。うち、学校にもあまり行かれへんかったからお友だちもおらへんで。せやから、しず姉様と一緒におられるんが、ほんま楽しゅうて」
「そうか。そう……か」
一緒に夕飯の支度をしたり、お庭の手入れをしたり、とりとめもなく他愛のないおしゃべりをしたことを話した。そのたびに絹江さんは頷きながら眦をハンケチで拭う。少し迷ってから、父の書斎の本を喜んで読んでいたことも話した。それを聞くと、しばし嗚咽を漏らしながら絹江さんは泣いた。
一頻り泣いた後、絹江さんはふと、部屋の隅に置かれている風呂敷包みに目をやる。
「荷物、まだ解いてへんの。遠慮せんと、自分の部屋として使てくれてかまへんのよ。ほら、手伝うさかい」
泣きはらした目で微笑みながら、絹江さんは包みを引き寄せる。すると、ゆるかった結び目が解けて、中身が散らばった。いつもしず姉様が髪を梳いてくれた柘植の櫛、一緒に眺めた植物図鑑、それから――。
「あら。花札」
箱から零れてばらばらと畳の上に散らばる。臙脂色の縁取りの鮮やかな札たち。
「すみません、その……」
「花札で遊んでたん? しずと? 悪い娘らや」
札を拾い集めながらわたしは叱られると思い身構える。お守りのように、鬼札をぎゅっと胸に引き寄せた。だけど聞こえてきたのは、ふふ、という笑い声だった。
「今度、うちにもおせえてな」
まるで若い娘のように気安く言う。その声音は少ししず姉様に似ていた。
「堪忍やで。うち、董子さんに冷たかったな。峰子さんにも、ようさんきついこと言うたわ」
後悔を滲ませ、絹江さんは目を伏せる。
「しずにも辛う当たってもうたから……嫌われとったやろうなぁ」
「いえ。しず姉様……しず、さんは」
「ええんよ」
言い直したわたしに、絹江さんはこれまでに見たことのないような慈しみに満ちた目を向けた。目にはまた涙の粒が溜まって今にも転がり落ちそうだ。震える唇を噛み締め、深く呼吸をする。
「姉様と呼んでやって。あの子のこと、しず姉様、て」
そのあと、彼女の口から転び出た言葉に、わたしは心の臓をぎゅっと掴まれたような気になった。
「本当の姉、妹なんやから」
絹江さんの視線が泳ぐ。悲しげに眉を下げて、唇を戦慄かせている。何かに耐えるように、膝の上で拳を握り締めていた。
「姉様……?」
「そや。姉様や」
ぎり、と奥歯を噛み締めた。絹江さんが何故、しず姉様に辛くあたっていたのか、ようやっとわかったから。
姉様。しず姉様。わたしの、姉様――。
かたかたと糸車が廻る。宿命と縁を弄び戯れに縒り上げ、嘲け笑う。
恨みが腹の奥底で渦巻くけれど、誰を恨んでいいのかわからなかった。亡き父を、わたしを捨てた母を。真実を語らず去った笹本さん、しず姉様の命を奪った史生さん、不義の子を愛せなかった絹江さん……誰が一等、罪深いだろうか。父のしたことは女として許せないけれど、だけど、だけれど、そうでなければしず姉様はこの世にはいなかった。
絹江さんは、わたしが混乱しているのをじっと見守っていた。この人はきつい言葉と態度で、必死で自分を鎧ってきたのだ。今は悲しみにそれも割れて壊れて、柔く脆い彼女が剥き出しになっている。
可哀想に。
ふとそんな気持ちが湧き上がって、すぐに掻き消した。
ふわ、と何かが目の前を過る。薄く開いた窓から河津桜の花びらかと思った。だけど違う。それは弱々しいけれど、自らの意志で飛ぶ蝶だ。灰色の不吉な羽根を震わせ、銀の粉を撒き散らし。
音もなく、蝶は絹江さんの肩先に止まり羽根を休める。
わたしは迷うことなく、それに手を伸ばした。
「董子さん?」
「肩に糸くずついとったから」
「そう? おおきに」
力なく微笑む絹江さんに笑みを返しながら、わたしは手のひらの中でもがく蝶を握りつぶした。