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退廃の塔

 僕らがあれだけ盲目的に信じて頼った権威なるものをバイパスした形で消費が行われ始めているという事実はあまり顧みられることなく着々と進行している。かつて栄華を誇った塔の上の人々は焦りを感じているだろうか。

 当然ながら理論的な裏付けがあってこその権威も本来の成り立ちとしてあるにせよ、権威は権威を信じる人々が再生産している部分も多分にあったことは否めないだろうし、そのような仮想の権威は目下のところ、明確なターニング・ポイントがあるわけでもなく自然とじんわりとメッキが剥がれつつあるように思う。

 正確性や信頼性が求められる領域以外の部分、特に共感で読まれるようなものや楽しみのためのコンテンツはシンプルに「好きなものが好き、だから買う」で完結してしまいそれ以上でもそれ以下でもないのだから、今となっては権威の裏付けというのはちょっとした隠し味やウンチクのようなものでしかないのだろう。僕らは少しずつ、仮想的な価値ではなく味そのものを評価するようになってきているのかもしれない。

 たとえば映画の評論なんかでいえば、プロの評論家よりも独立性の高いブロガーによるものを僕は好む。特に自分の価値観に合った記事を書く人を見つけられるとGoodで、その人が面白いと思った映画は僕も大抵面白がれる。その人の評論は自分より一歩先を行った興味深いものであることが多い。

 自身の好みへのフィット度合いと、余計なしがらみからの独立性の高さ。これらがきっと重要だ。もちろん権威あるプロフェッショナルが書いたものだって味わい方はあるのだろうけれど、最近はその純度を疑うことが増えてしまい、どうにも首を傾けながら読みたくなってしまう。

 ネットは広がりやれることは増えて、悪用の方法も多岐にわたるようになり、ただでさえ情報量が氾濫している状態に輪をかけて石の中から玉を見つけることが難しくなってきている。そしてその玉の種類も千差万別となった昨今、権威ほど虚しく響くものはない。

 塔の上の人々はそれを退廃だと嘆くだろうか。巨人の肩の上に乗らない周回遅れの視点を大事にしてどうするのだと、知性の後退ではないのかと罵るだろうか。

 自然科学はさておくとして、他の分野においては、その誹りは当たらないかもしれない。僕らはかつて神様を知らず知らずのうちに殺したようだけれど、次に殺すのは巨人なのだろう。先人が積み上げてきた権威ある視点を恭しく学ぶのとは別の活動として、今この時代に生きる者として感性を共鳴させることが、きっと望まれている。

 そのとき、僕らは何かを積み上げるだろうか。
 それとも積んだものをその都度崩してしまうだろうか。

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