いいねと言い値
noteで課金したり、BASEでハンドメイド品を購入したりすることに徐々に抵抗がなくなりつつある昨今、物の値段という概念についてときどきよしなしごとを考える。
あのお店で並んでいる商品に支払う100円と、インターネットのか細いつながりでたどり着いた見知らぬ誰かに支払う100円を僕は同じ金額、同じ価値のものとしてみなしているのだろうか、それとも少し違う感覚のもとに支払っているのだろうか。
考えてみればお金というものは物々交換の媒体として、価値を担保するための共同幻想のようなもので、それ自体に何か価値を宿らせているというよりは、それがモノと交換できるという信頼のもとに成立している謎の物体なのであり、支払って手に入れる対象となる事物の価値に何らかの物差しを添えることが難しい場合(とりわけ、C2C取引)には、少し価値の幻想が揺らぐのかもしれない。
たとえばnoteで記事を買って手に入るのはその記事を読む権利であることは明白だけれども、僕はそれだけのために購入したのかと考えると内心は少し違っている気がしていて、記事を書いた人への応援であったり、その人と単なるフォロー以上のつながりを持ちたいという意思であったりする。
どこにあるのかわからない「気持ち」よりも、共同幻想としてとりあえず成立しているお金を用いた方が、心のつながりとしても安定感がある、という言い方もできるだろう。
お金が心のつながりを担保する、というのは座りが悪いだろうか。でももしかしたら、そういう感覚は古くなりつつあるのかもしれない。
C2C取引や暗号通貨(仮想通貨というよりはこの呼び方をしたい)、ブロックチェーンの登場により、お金の取扱いがどんどん変わってきている昨今、「お金を払うという行為そのものをしたい人はいない」というのはまさにそのとおりで、「支払い」という行為は徐々に物々交換に本質的には近づいていく。
お金は代償であり、返礼であり、応援であり、もしかしたら好意かもしれない。心のいいねボタンがネットワークを巡って、いつの間にか誰かの生活を潤すような世界もそう遠くないだろう。そこでの相場とは心の物差しと同義になり、見えないわらしべ長者がテクノロジーによって活動し、一周した好意が対象の求める値段に増幅された状態で届く、なんてこともあるのではないか。
機能で物を買うだけでなく気持ちで気持ちを買うことが増えてきたときに、適切な好意が適切な人に、適切な形で届いてくれるようになれば、世の中の回路は今より少しだけ円滑に流れてくれるのかもしれない。